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2月, 2021の投稿を表示しています

9の倍数の不思議な性質(続き)- 解決した -

  孫娘とその母親 ( 息子の嫁 ) が小学校算数について、私に聞いてきたことから始まったこのいきさつは、先のブログに書いてある。元はと言えば、掛け算の九九の 9 の段の答えで、 1 の位と 10 の位の数を足すと 9 になるのはなぜかだった。私が答えを見つけて説明していたとき、 10 × 9 = 90 も同じようになる。しかし、 11 × 9 = 99 となって、だめだねと言ったところ、母親が 99 に対してもう一回 9 +9 = 18 とすると 1+8 = 9 になると指摘してくれた。他の数でやって確かにそうなるけども、私には解けないでいた。   私のブログの読者に最近なっていた、 T さんから、昨日、解答が届いた。 9 の倍数 N を次のように表現する。                   N = a n 10 n + a n-1 10 n-1 + ・・・ a 1 10 + a 0   これを次のように展開する。          N = a n (10 n - 1) + a n-1 (10 n-1 -1) + ・・・ a 1 (10 -1)               + a n + a n-1 + ・・・ + a 1 + a 0   上の段の数は、 9 で割り切れる。したがって、下の段の数          N ‘ = a n + a n-1 + ・・・ + a 1 + a 0   も、 9 で割り切れる。   これに対して、上と同じ操作を繰り返せば最後には 9 となる  ( 証明終わり ) 。   [ 定理 ]     9 の倍数である任意の整数を十進法で表した各桁の数字の和を作る。これを繰り返すと最終的には 9 となる。   T さんの証明は、式の変形をまず演繹的に行った後、これを繰り返す帰納法で行っている。私ができなかったのは、小さな数から始まって、帰納法のみで解こうとしたからである。   私のブログについては、うざいから連絡するのをやめてくれと正直に言ってくれた人もいる。しかし、熱心に反応してくれる方も少なからずいる。今回の件は、私のブログへの意欲を増してくれた。私はテニスでもゴルフでも、他人の褒め言葉に乗っ

思い込み (3) 決め打ち

  電通大での特任教授時代の出来事である。ある会社のデジタル無線機の開発について、指導を頼まれていた。方式設計と特性の確認等を繰り返して、 2 年位で、実際に試作機作りの段階に達した。納期が迫ってきているものの、思ったような性能が出ない。技術者が、もがくのは通例である。問題の解明と対策のために、夜遅くまで、ときには終電間際まで、工場の現場で皆で働いていた。   我々の現場の隣で、別の部署のプロジェクトが進んでいた。ある夜、若い技術者が上司に怒鳴り付けられていた。「お前は決め打ちしているだろう」と言った、上司の言葉を今でも覚えている。隣の現場でも何か問題が起きており、その対処の仕方について、このような言葉で叱られていたようだ。ともあれ、「決め打ち」と言う言葉に興味が持てた。我々が若いときには、このような言葉遣いはなかった。若い人が問題の核心に迫るさいに、いろいろな角度から検討することをせずに、 1 つの思いついたことからのみ、作業を進めていたのだと思う。   我々のプロジェクトのリーダーである、 I さんは、技術的にも人格的にも優れていた。したがって、このような罵声を聞く事はなかった。むしろ、各自が、自由に意見を出し合い、良いと思えた検討案を手分けして実行し、楽しんでいたと、少なくとも私は思った。このようなプロジェクトは、彼らにとって初めてであり、技術の蓄えもさほどなく、技術者も揃っていなかった。ひとえに、 I さんの指導力によるものである。私は、デジタル無線の技術はわかるものの、実際、それを無線機として、実現した経験はなかった。   技術者の体制に不安があったので、私は当時、たまたま付き合いがあった、独立したてのベンチャー会社の T さんを紹介し、下請けの形でプロジェクトの一員に加えてもらった。彼は、特にアナログ無線部のエキスパートであり、本質をよく理解していた。また数学も好きであり、娘さんは東大の数学科を目指した後、一橋大学の経済学部を出て、外資系のコンサル会社に勤めている。学生時代の彼女を呼び出して、仕事が終わってから、三人で酒を飲みながら話をしたこともあった。   無線機の信号処理は、慶応大学の大学院を出て 3 年目の若い人、 K 君と、その会社の子会社に在籍していた、これまた若い人 ( 高

思い込み(2) おるにしき

  小学校の唱歌、「もみじ」の歌詞は、「秋の夕陽に、てる山もみじ… ( 中略 ) 、山の上にもおるにしき」である。私は、習った当時、最後のところを「山の上にも居るにしき ( 蛇 ) 」、すなわち、ニシキヘビが(動物園だけでなく)山にもいると、思い込んでいた。「織る錦」と理解していた子供はいたのだろうか。なぜ、私は質問しなかったのだろうか。先生はなぜこの意味を教えてくれなかったのだろうか。   今、思うと、それでよかったのだ。後で、自分で正しいところに思い至るのは楽しいことである。昔、論語を子供に皆で暗記させたそうである。それも、教育における 1 つの方法である。大学時代に習った事を講義中によく理解できる事は稀である。試験勉強中はともかく、後で実社会に出てから具体的な事例に接して、あの時、あの先生が言った事は、こういうことだったのかと、分かった時は嬉しいものだ。

思い込み(1) - 孫の算数問題 -

子供の頃の思い込みは、すでに、ブログ「船のタイヤ」に書いた。最近のものを紹介する。1ヵ月以上前に、4年生の孫の算数の問題がわからないので教えてくれと、息子経由のメールが送られてきた。正方形の紙を2度折り曲げて、作られる角度の1つを求めるものだ。ひと目見て、大した事はないと感じたので、FaceTimeでのビデオ会話で孫に言った。「こういう問題は実際に折り紙を折ってみると良い」と。  解き始めてなかなかできない。問題図に示されている紙の角の1つが、1つの辺の上にちょうど重なるようになっているので、この事実を使って、相似形や角の対称性、三角形、四角形の内角の和などを使って、いくつかの方程式を立ててみた。いろいろな方程式を作ってみたけれども、変数の数と方程式の数を同じにすると、方程式が独立にならず、解けない。1週間以上、頭を冷やしながら何度か考えたがまだわからない。途中で、ビデオ会話で、まだ分からないと正直に話した。その際に、「爺さんは高校のとき、幾何が苦手だった。1年生で幾何を教えてくれた先生が下手だった。2組あった理系進学クラスの補修授業で数学は、2年生の途中まで成績の悪い方のB組であった。この手の問題は、都内の電車にぶら下がってある有名私立中学受験の類のひねくれたものだ。算数の問題は、じっくり考えて時間をかけるほど、解けたときの喜びは大きいよ。お前のパパが、高校の期末試験前に数学の問題を聞いてきたとき、爺さんは、元に戻って1から色々と説明しようとしたら、どうでも良いから答えだけを教えろと言ったことがある。それで、その後、伸びなかった」と付け加えた。  時々、思い出したように考えてはみたが、解けなかった。しびれを切らしたのか、1ヵ月以上経って、息子から解答が出ているページの写真がメールで送られてきた。なんて事は無い、折った紙をもとに戻して考えれば、小学生で簡単に解ける。問題をよく読むと、紙の1つの端が辺の上に重なるとは一言も書いていない。私は勝手に思い込んでいたのだ。メールの返事に次のように書いた。「そんなことだったとは。騙された気分だ。盲点だった。紙を折ってみたら気づいたはずだ。悔しい」。

船のタイヤ

  小学校に入る前の私の思いこみを書く。生まれ育ったのが、五島奈留島である事は何度も書いた。漁業が盛んであったので、船がたくさんあった。漁船のそこそこ大きいのには、ディーゼルエンジンを積んでいる。当時は船の両舷に、車のタイヤを片側に 4 個ぐらいづつ着けてあった。岸壁につけるときなどの緩衝材として、古タイヤを利用していたのである。私は、その船が車と競走して勝ったので、戦利品として、そのタイヤを使っていると思い込んでいた。   小学校に入る前は、大人に向かってなぜなぜと聞くこともあれば、自分で勝手に結論づけていた子供時代があったのは、私だけではないと思う。当時は、実際に車が走るのを見る機会は少なかった。島にある材木屋がマツダの三輪車を使っており、これが、たまに来ると、子供たちみんなが喜んで近寄り、排気ガスのガソリンの匂いを嗅いだ。少し大きくなると、走って追いかけ、荷台の後ろから、牽引用鉄輪を踏み台にして、飛び乗って、少しの間の乗車を楽しんだ。見つかるとひどく怒られた。   問題は降りる時である。降りる時に、車の振動で荷台で顎をひどく打たれることがある。手で荷台の上端をつかんで、そのまま少しの間、足を走らせてから、手を離すのがコツである。できるだけ速度が落ちた時が良いので、峠の入り口の坂が始まる場所で降りた。たまには、降りることができないで町まで乗せられていった子供もあった。当時の道路は舗装していなかったし、道もまっすぐでなかったので、車はそんなに速くなかった。それに比べて、旧式の焼き玉ポンポンエンジンからディーゼルになった船はずいぶん速く見えたので、私の思い込みはあながち、的外れではなかっただろう。 何年か前に、東京に赴任していた息子一家が、瀬戸内海のフェリーで九州に戻ってきた。小学校に入る前の孫が、フェリーの中でブリキの船のおもちゃを買ってもらっており、私に見せた。その孫が、「なぜタイヤが船に付いとると」と聞いた。私は、「車と競争して勝って、分捕った」と答えた。

人間の狂気

  テレビ番組、「独裁者 3 人の狂気」 (NHK 映像の世紀 ) を紹介した後、私の考えを書いてみたい。 3 人とはムッソリーニ、ヒトラー、スターリンである。この番組は貴重な映像を発掘して、これをもとに構成している。音楽を担当する加古隆の曲が主要な場面で流され印象を深める。 まずは、ムッソリーニから始まる。第一次世界大戦の後すぐに始まった経済不況の中で、イタリア政府は有効な手立てをうてず、国民の不満が高まっていた。その中で、ファシスト党 ( ファッショ : イタリア語で「束」や、「連帯」 ) が、北部の工業都市ミラノで登場し、ムッソリーニが党首となる。その軍組織は黒シャツ隊と呼ばれた。彼は裕福な家の出身であり、英、独、仏語を操る教養人である。また体は頑健であり、その筋骨隆々とした体を皆に見せるため、すぐに上半身裸になって農作業を手伝っている姿などを民衆に見せている。女性に人気が高く、多数の女が彼に賛辞の手紙を送った。後にその中の 1 人が愛人となって最後まで連れ添った。彼は大衆を称して、「女性に似ている」と発言している。また、国民を恐れさせて尊敬させる手法を意図的に使った。黒シャツ隊はローマに進軍し、大衆の支持を得た。団結させた国民の努力のおかげで、小麦の生産は 1.5 倍になる。ムッソリーニは国王の信任を得た。また、選挙法の改正を経て政権を握る。イタリアをかってのローマ帝国のような強い国にすると宣言した。手初めに、ローマ式の手を伸ばす敬礼を導入した。また、昔のローマとカルタゴ戦争の映画も私財を投うじて作っている。さらに、エチオピアに侵攻し、制圧する。これに対して、国際社会の反発が強まる。それに応じて、国民大衆がまとまり国家の下に団結する。   ヒトラーはムッソリーニの成果のおかげで、ナチスの党首に上り詰めたと説明される。ナチス党のミュンヘン行進は、ムッソリーニのローマ進軍を真似ている。ヒトラーの突撃隊は黒シャツ隊を真似ている。ヒトラーはベネチアにムッソリーニを訪ね圧倒され、涙を流したという。体格からして違う。ムッソリーニはヒトラーを称して「学のない道化師」であり、彼の書いた「わが闘争」の内容をバカのように繰り返し話すのみだと伝える。そして恋に落ちた人間のように、ムッソリーニの私生活にわたり質問したそうだ。ドイツ

時間の反転

  私の博士論文の題目は「導波管接合サーキュレータの研究」である。これはマイクロ波電気回路の 1 つであり、不思議な性質を有している。端子は 3 つある。電波を端子 1 から入れると端子 2 に出てくる。端子 2 から入れると端子 3 から、端子 3 から入れると端子 1 から出る。電波が循環するように通行するのでサーキュレーターと呼ぶ。端子 3 に無反射終端器をつけると、端子 1 から 2 には通じるものの、端子 2 から入れると端子 3 で吸収されて、端子 1 には出てこなくなる。この性質から非逆回路と呼ばれる。   九大での博士論文の発表審査の際に、審査官の教授 4 人から試問を受けた。副査の 1 人の入江教授が、私が何度も使った「非可逆」と言うのはどういう意味かと問うた。物理の本質まで遡る鋭い質問である。私は、このことについて考えていたので、無事に切り抜けることができた。「私が言っているのはオンサーガー (L. Onsager) の言う非可逆性です。先生は、もしかして熱力学第二法則の時間の非可逆性( irreversible )を言われているのですか。これではありません」と答えた。主査の安浦教授は、「そうだね、回路の非相反性と言えばよかったね」と言葉を添えてくれた。オンサーガの(非)可逆定理は博士論文を書いていた当時に、 NEC の同期会の集まりの折、東大応用物理の大学院を出ていた鷲尾さんに教えてもらい勉強していたので助かった。時間の反転と可逆性(相反性)はオンサーガーの定理の説明で用いられている。   物理の動的現象は、時間及び空間に関する偏微分方程式で記述される。私の博士論文では電磁波を扱うのでマクスウェル方程式が出てくる。物理を扱うすべての微分方程式は時間 t の反転、すなわち t を - t と置き換えても同じ形になる。したがって、ある時間が経過した後、時間を逆転させると(ビデオテープの巻き戻しに当たる)、電波は戻る動きをする。ただし。この時の初期条件の全てで、時間の反転に対して影響を受ける物理量、例えば速度はその符号を負にしなければならない。オンサーガーの定理では、その他の初期条件として、直流磁界あるいは渦巻きも反転しなければならないと書いている。サー

陰謀の日本近現代史

  この本の題名に現れている「陰謀」に異和感を持った。今日の新聞 ( 朝日 ) に「「陰謀論」拡散 日本でもあった」と言う記事が出ている。この中で紹介されているように、「陰謀論」には嘘が含まれている。保坂正康のこの本では、そのような意味を含んでいないことは、本の帯の次の文章でわかる。「いつの世も知恵と知恵の戦いが歴史を作る。ときにはそれを「陰謀」と言う。よく知られた事実も本来は何者かの陰謀の産物かもしれない」。「戦争と大事件の「闇」を照らす」。「歴史を変えたのは誰なのか、私は、今、光を当てたい」。「ルーズベルト、近衛文麿、東條英機、西郷隆盛、伊藤博文、昭和天皇、甘粕雅彦、中野正剛、大西瀧治郎、瀬島龍三… 彼らが関わった大事件や歴史上のふるまい、そして、あの戦争の帰趨には知られざる裏がある」。   私は、会社時代の昼休みに英語を聴くのに慣れるために、ソニーの名刺型ラジオで、米国の極東放送 (Far East Network) を聞いていた。世界の出来事を紹介した最後に、「 that's behind the story 」と結んでいた。出来事の「背景」の説明である。「闇」はそれより暗く、「陰謀」は悪だくみが感じられる。開戦前のルーズベルトが代表する米国の動きは、日本から見たら悪だくみに思える。しかし。これは彼らの意思を達成するための、戦い方の立派な知恵である。   私があれこれ書くより、目次を見たほうが手っ取り早いだろう   第 1 部 陰謀の近現代史 第 1 章 仕組まれた日米開戦    (1) ヒットラーを利用しようと画策する東條英機       (2) ルーズベルトが日本に仕掛けた罠       (3) 運命の午前会議、出席者は 9 人    (4) 近衛と東條の対立    (5) 国策検討会議のトリック    (6)   空白の 1 日    (7)   国家存亡をかけた日米の化かし合い    (8) 真珠湾攻撃へのカウントダウン    (9) 日露戦争での伊藤博文の覚悟   第 2 章 事件の伏線、人物の命運    (1) 新国家建設での軋轢    (2) 西郷隆盛が見誤った「会津の恨み」    (3) 天皇がいて、いなかった