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1月, 2021の投稿を表示しています

小説「また会う日まで」

  朝日新聞に連載中のこの小説を読んでいる。海軍の学校における体験談に興味を覚えた。主人公の上司に当たる、鈴木貫太郎は、アメリカと戦って勝ち目は無いこと話したと書いていた。もしかして、一時的にはアメリカ西海岸ぐらいは占領できるかもしれないが、しかし、広い全土を占領し降伏させることなどできないと言ったそうだ。鈴木貫太郎は、終戦時期に天皇の侍従長として勤めていた。 2. 26 事件に襲われて銃弾を受けた。軍刀でとどめをさそうとするところに、奥さんが倒れ被さり止めように頼んだので、命を取り留めたことは本で読んで知っている。彼は、軍が反対していた終戦を、天皇と図って聖断と言う形で成し遂げた。小説では海軍での新兵イジメの様子も詳しく書いてある。また、九州での話題もたくさん出る。   作者は池澤夏樹である。名前だけは知っている。自分の体験談を下にしているのなら 90 歳位の老人になることになる。確かめるべくネットのウィキペディアで調べてみると、私と同い年で、昭和 20 年生まれである。彼の父親は福永武彦とある。福永武彦の作品を大学時代に読んだことがあるので、興味が募る。彼のことを調べてみて、小説に書かれている内容と作者、池澤夏樹の関係が判明した。私としては俄然、面白みが増えた。今、新聞で読んでいる人にはネタばらしとして、不興を買うかもしれないがお許し願いたい。 小説の主人公は、作者の父の母方の叔父である、海軍少将、理学博士の秋吉利雄である。したがって、作者の池澤夏樹は大叔父のことを書いていることになる。昨日の新聞に出ていた部分では、主人公が甥に当たる武彦(福永)を、理科に興味を持たせようとしたがうまくいかなかったと書いてある。ウィキペディアでは、福永武彦は東京帝国大学の学生である福永末次郎と、日本聖公会の伝道師であったトヨの間で、福岡県二日市に生まれたとある。小説では、読んだ方は知っているように、武彦は福永末次郎の実子ではなく、トヨが大阪から来た男と別府の温泉で一夜の契りでできた子供となっている。小説の主人公が、親戚筋にあたる福永末次郎に因果を含めて、自分の妹であるトヨと結婚させ、武彦を末次郎の子として育てることになった。次男も生まれ文彦と名付けられた。ただ、トヨは産褥熱で死んでしまった。最近になって、小説の題名「また会う日まで

無線基地局騒動

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  1 月の日の里 1 丁目の定例役員会のおり、楽天モバイルの基地局建設の紹介があった。私の家のすぐ近くにある公民館(正式にはコミュニティーセンター日の里会館:従来の呼称の「日の里公民館」がずっと良い)の駐車場の端に電柱程度の塔を建てる予定である。町内会長が市有地と説明したのでオヤとは思った。市の承認は下りており、 1 月末から工事が始まると聞いた。翌日、家内が私に告げた。町内役員として一緒だった、基地局予定地の近くに住む方が訪ねてきて、基地局建設のことを知っているかと聞いたそうである。思い詰めた表情のようだったので、反対してほしいと思ってのことだろう。健康被害が起こるし、周りの土地の評価も下がると言ったそうだ。私が無線関係の仕事をしていたことを知ってのことだと思う。 その翌日には、町内の別の方が訪ねてきて家内が玄関先で応対した。基地局が出す電磁波が怖いと聞くが、どの程度のものかと聞いてきたようだ。カミさんは基地局は、「すでに全国にたくさん立っているので、健康被害があるのなら既に相当な数の事例があるはずだ。今のところそうでは無いようなので、そんなに心配しないでも良いだろうと主人は言っていた」と答えたそうだ。その折に置いていったのは、電磁波の怖さとそれを学ぶための勉強会の案内チラシである。九工大の物理学の名誉教授が目からウロコの解説をすると言う 1 文が印象に残った。近くに住むテニスの仲間からも電話がかかってきた。隣近所で基地局の怖さがいろいろ出ているので、彼の奥さんが専門家としての私に意見を聞いてくれと言ったそうだ。私は家内が先にしゃべった内容を伝えた 勉強会 ( 土曜日 ) でどのような話が出るのか興味があったものの、邪魔になると思って出席しなかった。業者からの説明会が日曜日に公民館であることが、町内会の至急回覧で知らされたので、これに出席した。その顛末を書く。 楽天モバイルの担当者 1 名と工事請負業者の代表とその他 2 名が、ホールの壇上で自己紹介した。業者の代表が司会役である。 30 名以上はいただろうと思われる出席者は、出鼻をくじかれた。なんて事は無い、建設は取りやめると言うのだ。業者の手続きの不備が原因であったとして、全員が来場者に対して深々と長く頭を下げて謝った。業者は市役所から許可をもらう際に、住民の

情報という単語について

  この言葉は、現在ではなくてはならないものとなっている。私はそれが、軍隊用語を漢字で表したものであることを知っている。すなわち「敵 情報 告」を短縮したものである。したがって「情報通信」と言うのは、通信がダブって使われていることになる。   よく使われている単語である「 IT 」には通信が含まれていないとして、ときには、特に通信の専門家が 「 ICT 」と言い換えている場合もある。「情報」には先に挙げた軍隊用語で通信の意味も含んでいるのでわざわざ ICT と言う必要はない。   IT は情報理論 (Information Theory) の短縮略称でもある。これは、シャノンが始めた通信技術の理論である。従って、この訳語は、「情報」 = 「通信」を意味している。ところで、中国においては、情報は使わない。これに対しては、「信息」を使っている。この方がより一般的に思える。   このブログを書くにあたり、念のためにネットで調べたらよくまとめているものを見つけた。「情報と言う言葉の語源とその周辺について」 ( yamashita-lab.net) である。これによると、 Information Theory を情報理論と訳したのは東工大教授だった関英男である。当時は( 1954 年)、評判が悪かったそうだ。元になったフランスの軍隊用語を辞書で調べると英語では、 Information とあるので、あながち、不適当ではない。問題は「情報」の出自が軍隊用語からであることだ。当時は、東大に作ろうとした学科(計数工学)名を「情報工学科」にしようとして、一笑に付されたそうである。同様に「情報処理学会」も、その設立のときには、大いに異論が出たと書いている。当時は、「情報」の出自が皆に知られていたからだろう。今では「情報」が英語の information の意味で、何の違和感もなく使われている。

経済学 – 「人新世の資本論」を読んで –

  書評に出ていたので、斉藤幸平のこの本を最近読んだ。 33 歳と言う若さ故と思われる議論展開のスピード感が、その文章の巧みさと相まって印象的で一気に読み終えた。その感慨は、音楽の場合に当てはめると、シュタルケルが初めて録音した LP で、コダーイの「無伴奏チェロソナタ」(日本コロンビア)で聴いたときに似ている ( 録音はバルトークの息子でありその音質の良さでも当時は驚かされた ) 。 出だしの文章からして挑戦的である。明らかに共産党宣言の出だしを意識している。最初に SDGs ( 持続可能な開発目標 ) をバッサリ切っているので、なんでなんでと思わされる。それに続いてこれまでの脱成長論あるいは修正資本主義が槍玉に上がる。日本人では、広井良典(私は読んだことがない)佐伯啓思(私はかっている)が、外国人では、スティグリッツなどが切られている。著者は意図的にこのような煽り(アジテーション)の言説を用いている。 私自身の頭を冷やすために、アマゾンの読者の評価を調べてみた。例によって賛否両論である。私は評価の低いものから読むことにしている。たいていは、まともに理解していない。本質的な問題、欠陥を指摘している 、たまにある 意見は貴重である。書評で触れられた中で気になったので、白井聡の「武器としての資本論」と泉田瑞賢という人の「出口王仁三郎の世界改造論」を買って読んだ。また、水野和夫の「資本主義の終焉と歴史の危機」を読み返してみた。これらを読んだ後に、「人新世の資本論」を 2 度読み返したところである 。 「人新世」とは地球の歴史年代を区分した地学的な呼び方である。「ヒト新世」と書いた方が良いと思う。現在の地球は人が大繁殖している状況だと考えれば良い。確かに新人類は地球の隅々まで生息しており、資源を含めて地球環境をひどく変えてしまっている。マンモスの繁栄した時代と比べようのない変化を地球に与えている。他の動植物に大変な被害を与えていると言うべきだ。著者は二酸化炭素の排出による気候温暖化現象をとり上げる。人類の経済活動によるこの環境変化がすでに危機的状況 (point of no return) にあると指摘する。その後に続く議論はこの事態を前提としている。 日本を含めて経済成長が

数学会への論文投稿(その3)

  米国数学会へ 論文 を投稿する事は、先のブログ 「作品の推敲」 で書きました。正月早々に返事が来ました。その全文は下記の通りです   Dear Professor Akaiwa,   This message concerns the manuscript   An Elementary Approach to The Fourier Transform of Not Absolutely-Integrable Functions    by Yoshihiko Akaiwa submitted to the Proceedings of the American Mathematical Society. Unfortunately, we cannot accept it for publication. Sincerely,   Dmitriy Bilyk Editor of Proceedings of the American Mathematical Society   案じていたような拒絶の知らせです。それもこのようにそっけないものです。これに比べると先に報告した日本数学会の返事はまだマシだ(しかし内容は同じ)。私は米国に本部がある電気系学会 IEEE (Institute of Electrical and Electronics Engineers) や、日本の電子情報通信学会などに論文を投稿してきた。落とすときにはその理由を書いてきます。ときには、複数の査読者の間で賛否が分かれ、担当編集者が著者に対して弁明の機会を与えます。特許の申請に際しても、拒絶の理由は必ずつけられます。 1 番多いのは、既存の技術から、容易に類推できると言う理由です。審査官にとって最も楽なやり方だからと思う。これで引き下がってくれれば、審査の努力と時間の節約になるからです。何度も反論しながら食い下がって、受理された経験があります 。 米国の数学会は応用数学も受け付けるとあったので、少しは期待してました。 私には、 数学会は特別異質なように思われます。今後どうするか考えてみます。現役を退いているので、論文を出したところで、私の今後の生活の役にたつわけではありません。現役当時、学部学生に対する講義で、超関数の理解なしでデル

経済学 – 私の体験と読書 –

  貧乏な人とそうでない人がいることは、小学校に入ってすぐに分かった。着ている服でもそれが分かるので、身体検査でパンツ 1 枚になるのが嫌だった。先生や裕福な家の一部の恵まれた子供達はきれいな下着をつけている。その他にも、彼らが習字か何かの習い事で、そろって町へ出かけていくのを、牛の散歩をさせながら見ていたことを憶えている。ただし、私よりも恵まれていない家の子供がいることは知っていた。例えば、中学校で弁当を持たせてもらえないで、昼食時には裏山へ登り、皆が食事を済ませてから教室に戻っていた。家が近くの生徒は昼飯を家で食べに出るので、このことはさほど目立たなかったようだ。さらには、父親の夜のイカ釣り漁に連れて行かれ、授業中に眠たくなっている同級生がいたと、本人から後で聞かされた。   中学校を卒業して高校 ( 当時、島には高校がなかった ) へ行けたのは、卒業生 100 名弱 ( 昭和 20 年生まれなので少ない ) のうち、 10 人ぐらいだった。内訳では、工業高校、商業高校、水産学校などが多く、普通高校は少なかった。長崎市の県立普通高校に行ったのは、私 1 人だけである。私も工業高校に行く予定であったものの、願書を出す直前になって変わった。校長 ( 木場 ) 先生が父親に勧めてくれたおかげである。校長先生がこのように助言してくれたのは、下五島地区で行われた共通学力試験の結果からであろう。ちなみに、前の学年の卒業生は 250 名ぐらいいた。長崎の県立普通高校を 5 名受けたが、全員落ちていた。我々の学年は人数が少なかったので、主要な科目、英語、数学、理科、社会は、たまたま良い先生方がそろっていた ( 国語 はそうでもなかった ) 。さらには、大学にも行かせてもらった。当時の国立大学の授業料は安く、私が受けていた特別奨学金の 1 月分で足りた。家庭教師などのアルバイト代とで、家からの仕送りはそれほど必要なかった。私は運が良かった。   高校、大学に進むにつれて、政治や経済について知識がたまる。そうは言っても、若いので、文芸文学、哲学、心理学などへの興味が強い。大学では、当時、流行っていた、大江健三郎や安部公房などの小説、サルトルやカミュなどの実存主義にはまっていた。経済学について本格的に興味を持ったのは、大