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Lapis Lazuli の歌うケルト民謡

最近、 Lapis Lazuli の歌をよく聴いている。きっかけは、ハイレゾ( High Resolution :例えば、標本化周波数 192kHz, 量子化ビット数 24 )音源で特に録音の良いものを探して見つけたことである。彼女の曲は、オーディオマニアの参照音源として知られている。声の響きが心地よい。特に、気に入っている曲は、アイルランドやスコットランドのケルト系の民謡である。 An Irish Lalluby, Annie Laurie, Greensleeves, Scarborough Fair, Danny Boy, Morning has Broken, Water is Wide, The Skye Boat Song をウエブサイト e-onkyo  から購入した。 Lapis Lazuli は宝石の瑠璃を意味する。祖父はイギルス人だそうだ。英語で歌っているので、歌詞がわからないところが多い。それで、ネットで検索して印刷した。 Scarborough Fair はサイモンとガーファンクル、 Danny Boy はハリーベラホンテの、昔、買った LP レコードの中に入っている。これらが、もともとケルト民謡であったことは、このたび知った。 Scarborough Fair の歌詞の意味を理解するのは難しい。 Danny Boy は、出征する息子を父親が悲しんでいる曲だそうだ。参考までに、歌詞を末尾にあげている。 歌詞を見ながら、曲を聴いていて気付いたことがある。感動がもう一つの薄くなるのである。おそらく、私の脳が二つのことを同時に行うことに十分に対応できていないのでだろう。日本語の歌であれば、歌詞を見ないのでこのようなことは無い。特に、演歌などは、歌詞がわからないと感動は半減するだろう。 Scarborough Fair Are you going to Scarborough Fair Parsley, sage, rosemary and thyme Remember me to one who lives there She once was a true love of mine On the side of a hill in the deep forest green Tracing o

プログラム電卓HP33E

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この電卓は、 43 年前、会社に勤めていた頃買った。当時の月給の半分くらいの値段だったと思う。下宿先のおばさんが、横浜高島屋の割り引きカードを持っていたので、頼んで手にれた。逆ポーランドという算法を用いており、慣れると使いやすい。レジスタ(スタック)、 x, y, z, t   と Last x を持っている。レジスタに入っている値に、演算を行うことで計算を実行する。 例えば、 1+2 を計算することにする。まず、“ 1 ”を入力する。これは、レジスタ x に入る。次に、 Enter キーを押す。これにより、レジスタ y にレジスタ x の値がコピーされる。次に、“ 2 ”を入力すると レジスタ x の値が 2 になる。最後に、“ + ”を押すと、レジスタ x とレジスタ y の値が足されて、レジスタ x に“ 3 ”と表示される。日本語の言葉の順序、「 1 に 2 を足す」というように演算(動詞)が最後になる。レジスタ y には、レジスタ z の値が降りてくる。レジスタ z には、レジスタ t の値がコピーされる。使った値は、消えるのでレジスタを有効に使える。レジスタ x の消えた(演算前の)値は、 Last x キーで復元できる。 内臓関数もかなり揃っている。プログラムも操作手順をそのまま行えば良い。ステップ数は最大 49 であるものの、これまで、少ないと感じたことはない。表示が赤色の発行ダイオードであり、明るくて見やすい。プログラムの実行中に、この点滅が見ていて楽しい。電池は、充電式のニッケルカドミュウム(松下製)が付いていた。長く使っているうち、その補給が心配になったので、ニッケル水素電池を秋葉原で単体で買って、ケースに入れて使うことにしていた。その後、汎用単 3 充電池(エネループ)を使えるように細工した。 最近、ブログを書くために、整数の演算を行う必要があり、久しぶりに使うことにした。ところが、手動計算は動くのに、プログラムを動かすと不安定になる。電池パックを外してみると、電池に接触する電卓側の金属バネ板が取れており、外部電源をつないでも、内部の充電回路のみでは、供給電圧が低いことが分かった。そこで、九大在職中に買って、一度も使ったことがなかった、 HP48G のことを憶いだした。手動計算は、同じであるものの、

9の倍数の不思議な性質

東京に転勤(出向)していた息子一家の社宅に、一昨年、泊めてもらった時の出来事である。孫娘(当時小学 2 年)が、私に、掛け算の九九の九の段のことで質問してきた。掛け算の結果の一の位の数と、十の位の数を足すと全て 9 になるのはどうしてかというのである。確かに、 9 × 2=18 、 9 × 3=27 、 9 × 4=36 、となるので、言っていることは正しい。おもしろいことに気がついたねと褒めたら、実はママが言い出したと答えた。私は、しばらく考えたが答えられなかった。ゆっくり考えるから時間をくれと言い、その晩は寝た。明け方に、布団の中でいろいろ考えた結果、式を使うことで分かった。 n を 1 から 9 までの整数とする。 9 × n = (10-1) × n = 10 n – n =( n -1) × 10+10- n と変形することで、説明できる。ママはすぐに理解してくれた。ただし、孫娘には無理である。そこで、 9 × 1= 9 から始まって、一の位の数は、 1 つずつ減るのに対して、十の位の数は 1 つずつ増えるから、いつも足したら 9 になると説明した。 ママも孫娘も「じいちゃんはすごい」と褒めてくれた。私は言った。「偉いのはママだよ。算数は問題を解くよりも面白い問題を見つけることが大事だよ」と。 以上のことを、最近、ブログに載せようとしているうちに、 n が 10 以上になるとどうなるかを確かめてみた。一の位、十の位、百の位の数を足すと、たいていの場合、足すと 9 になる。例外は、 n = 11, 22, などの場合である。ただし、 9 にならない場合でも、 9 で割り切れる数になる。 一昨日、孫息子の誕生日の祝いを言うのに電話したおり、息子嫁(ママ)に、このことを話した。そしたら、またも彼女は、 11 × 9 = 99 の時に、 十の位と一の位を足すと 18 なる。そして、もう一度これをやると 9 になるといってきた。我々、 3 人(孫娘はどれほど分かったのか疑問)は、またの不思議に驚いた。 例を挙げておこう。 987654321 × 9=8888888889 各位の数を足すと 81 である。 81 の十の位と一の位を足すと 9 になる。次の例でも同様である。

小学校のときの算数と最近の失敗

小学校時代には、算数は得意であった。 1 年生の時の算数の授業でのできごとはこれまで何回か講演で紹介したり、書いたりした。熟年の女の先生が、男の生徒 1 人を立たせて、くり上がりがある足し算を説明した。説明が終わると生徒に、分かったかと聞いた。彼は分からないと答えた。これを3回続けたのち、先生が「あなたはえらい」と言った。みんなに向かって、続けて言われた。「分からないことを分からないと言えるのは本当にえらいことです」。 当時は、成績の良い生徒を卒業式で表彰していた。学年で、優等賞が 1 人、努力賞が2人であったと思う。我々の学級は、終戦の年(昭和 20 年)に生まれたので、学年全体で 34 名と少なかった。小学1年のとき私はこれらの賞はもらえなかった。ただし、私と、 3 年生の女の子とが、特別に、「特能賞」を渡された。 2 人とも算数が良くできるという表彰でした。その女性は、その後、高校を通信講座で卒業し、長崎大学の薬学部に現役で入学したそうである。大学では、全学連で活動し、その仲間と結婚したと聞いている。 小学校 4 年生の時であった。教師になりたての男の先生が、女生徒を立たせて、 2 けたの掛け算の問題に答えさせていた。彼女は、続けてなんども間違えた。私は、彼女の間違に法則性があることに気が付いた。先生に向かって、「先生、 OO さんは、掛けて繰り上がった数を上のけたの掛けられる数に足してから、掛け算している」と発言した。残念ながら、先生は、何も言ってくれなかった。 得意であった算数で、昨年末におおきな恥をかいてしまった。定年退職時に家を建て替えて、住宅ローンを組んでいる。ローン残高 1 %が 10 年間、そのまま税額から控除される制度を、平成 21 年末から利用していた。毎年、銀行から残高通知が来るのに、昨年(平成 31 年)はこないので、催促の問い合わせをした。翌日、返事の電話があった。すでに 10 回利用しているので、終わっているとのこと。私は、自分の頭の中で、 31 引く 21 が 10 であるから、 31 年末までだと思い込んでいたのである。

映画「パラサイト」の殺人動機

この件に関して、映画を観終わってからこれまで、どうにもスッキリしないと感じていた。ある新聞の欄に、殺人動機として、貧乏人家族が一線を超えたことを指摘されたからと書いていたと思う。私もそれを読んだ時には、そうかなとも思ったけれども。 今、私は、殺人動機について、この映画はわざと明確にしていないと考えるに至った。この動機が明らかに個人的なものであれば、この映画が示したかった格差社会の現実を描き出す力が削がれるだろう。この映画の出来にあらためて感心する。