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ユーミン

  実家がある奈留島で、今、有名なものは、世界遺産に登録された江上教会(その集落)とユーミンの歌碑である。教会の方はわかるとして、なぜユーミンの歌碑がそんなに有名なのか分からなかった。ユーミンを歌手であるらしいとしか、知らないでいたからである。この歌碑の経緯についいては、以下のようである。   長い間、島には高校がなかった。(したがって、我々の世代とその後のある時期まで高校に進学できた者は少ない)。まず、五島高校の分校が設置され、その後、独立して奈留高等学校になった。まだ、校歌ができていないとき、女生徒の一人が歌手のユーミン(荒井由美)に手紙を書き、校歌作成の依頼をした。彼女はこれに応えて、「ひとみをとじて」を作ってくれた。しかし、当時の教育委員会が反対してボツになった。そこで愛唱歌として扱われ、歌碑が建っている。そこまでの経緯は私も聞き知っていた。当時は、教育委員会は頭が硬いと思った。その後、歌碑を読んでみて校歌としてはどうかなという印象だった。作詞、作曲をしたユーミンがどんな人か知らなかったこともその一因かもしれない。そのうち、この歌碑が有名になり、島にいるとき私を訪ねてくる友人たちが、そろってこの歌碑を見たいという。その度に「ユーミンはそんなに有名なのかい、中島みゆきと比べてどっちが上かい」と聞いた。たいていはユーミンと答えた。   今頃になって、なぜ、ユーミンについて書くかというと、前から注目していた白井聡が書いた、「武器としての資本論」を買うかどうか迷って、読者の評価の投稿欄を見たからだ(この本に興味を持ったのは、斎藤幸平、「人新世の資本論」を読んで、これと比べてみたかったからだ)。そのうちの 1 人が、彼がユーミン舌禍事件を起こしたと述べていた。気になってネットで調べてみると次のようなことらしい。安倍総理が病気で辞任するときの記者会見を見て、ユーミンが「(残念で)涙が出た」と書いたか、話したらしい。これを、白井聡が批判して、「荒井由美として早逝すれば良かったのだ」と SNS か何かで過激に書いたようだ。それで、彼は散々叩かれ、勤務先の大学からも注意されたという。彼はその後、謝罪した。   白井聡が安倍政権に批判的であったことは、私もよく知っている。しかし、なぜ、ユーミンに噛み付いたのかは分から

海で死にかけた話

  一度目は、地元でいう「サヤ」に巻き込まれたときである。私の釣り船は、実家がある五島列島の奈留島の船廻湾の入江の港に置いてある。奈留島は若松島と久賀島との間に位置する。これらの島の間の瀬戸を、一つをタッゴラ ( 滝河原の訛りか ) 瀬戸、反対側は奈留瀬戸と呼ぶ。その日の海は穏やかであった。海底地図を見て、滝河原瀬戸の入り口にある「矢の島(地図には相の島とある)」近くの、新しい釣り場に行くことにした。釣り場に着いて、エンジンを止め、釣具の支度を始めた。仕掛けつくりに手間取り、 10 分ぐらい下を向いたままでいた。終わって、顔を上げて海の異変に気がついた。潮の流れが速く、船は矢の島から 200m は流されている。また、海面がこれまで見たことのない異様さである。高さが 1m はあると思われる波が、いわゆる三角波も含めて、形容し難い不規則さで出現しており、これらがあちこちの海底から湧き上がるような不気味さである。これが数 100m の四方で私の船を取り囲んでいる。おりしも、空が曇り風も吹き始めた。風に作られる波と潮流による波とがぶつかると怖い。なぜ。このときまで気がつかなかったのかは不思議である。おそらく、気がつく直前になって急に変化したものだろう。   驚いてエンジンをかけたものの、どちらの方向に逃げるべきかが判断できない。波が高くなったら、超低速で走らせろと聞いていたことを思い出した。自分自信に、「慌てるな、慌てるな」と言い聞かせながら、矢の島に向けて動いた。サヤの中から抜け出して、安心するまでどの程度の時間を要したかは分からなかった。今から思うと 10 分ほどのことかもしれないが、私にはもっと長く感じられた。無事に帰り着いて何日かの後、島でずっと小漁師をしている同級生に話したら、ひどく叱られた。大潮の時期に、よりによって、滝河原瀬戸の一番危ない場所に行ったのかと言うのである。漁師はそこの場所あたりを海の関所と呼んでいると聞かされた。私が、「あれは経験した者でなくては、分からない怖さだ」と言ったらうなずいていた。その後、まき網船団を経営し、本人自ら漁労長としてまだ働いている(今年の秋に病気で亡くなった)同級生に遭難しかけた話をしたら、「お前は運が良かった」と言われた。彼が保有している本船(鉄製で何 10 トンかある)でもあ

超関数とデルタ関数

  数学を専門としない人々、例えば、工学部の教官が、デルタ関数の絡んだ講義をする際に、超関数を理解したうえで説明している方は少ないであろう。かくいう私もその一人であった。デルタ関数は、物理学者ディラックが量子力学を記述する際に発明し、数学者シュワルツが超関数として、数学的根拠を与えたというぐらいのことしか知らないでいた。垣田、「超関数論入門」は現役時代に買って読み始めたものの、すぐに諦めて本棚にしまいこんでいた。シュワルツの「超関数の理論」の和訳本は買ったことさえ忘れていた。田舎の実家の本棚にあるのを、今年の秋に行って見つけて驚いた次第だ。今回の学習の役に立ったのは、これらに加えて、九大の数学の先生に紹介していただいた、 I. M. Gelfand and D. E. Shilov, ‘Generalized Functions’, vol., 1 である。   したがって、私は超関数については、これまでコンプレックスを抱いていた。げんに、大学での教科書として書いた、「信号処理の基礎」のまえがきで、私は次のように述べている。超関数を分かっていないで、「学部の学生にデルタ関数をしっかり教えることは無理であるという批判は、同僚からのものを含めて私は十分承知している」。先のブログで経緯を書いたように、最近になって、超関数をそこそこ学んだ。ここでは、その結果を簡単にご披露したい。数式はなるべく使わないこととする。数学は数式が全てという意見もある。しかし、数式が意味することを言葉で表現することは十分に意義がある。   まず言いたいことは、超関数という言葉使いに問題があることだ。シュワルツは、 Distribution( 分布 ) という言葉を使っているのに、これを超関数と訳出している。意味合いがだいぶ違っている。分布という概念ならある程度、想像できる。 専門用語としての分布 (distribution) は、関数 (function) 対比して提起されたと思われる。変数 x の値を 1 つ与えると値が直ちに決まる関数 f ( x ) に対して、分布は散らばっている変数が全て関与して、(演算)結果を与える。 例えば、確率密度関数 p ( x ) は確率の分布を表している。関数

ナマコの話

  本格的な冬になってナマコが出始めた。つい先日、私が見たのは青ナマコで、値段は 100 g当たり 380 円とあった。かなり高い。赤ナマコであれば、例年、その 1.5 倍はする。神奈川県に住んでいた時は、これと逆で青が赤より高かった。青の方が柔らかいからだと思う。九州に戻ってみると、これが反対になる。赤の方が日持ちがいいせいだろうか。だいぶ前に、五島の実家に真冬に帰ったとき、岸壁で長い矛を持ってナマコを探している男がいた。冬の海はプランクトンが少ないので、澄んでおり海底までよく見える。私はかなり大きなナマコを見つけたので、その人に、「あれはナマコだろ」と言ったら、事も無げに「青ナマコ」だと答え、気にしない。私は彼に頼んで突いてもらい、持ち帰って食べた。まずいわけはない。   ナマコは体に良いと言われている。飛行機の中で読んだ雑誌の記事に、中国の大連の海辺の町のナマコについて書いてあった。時期になると、毎日、 1 月ぐらい続けて、月給の半分(?)の金をかけて食べる習慣があるそうだ。次は、私の地元、五島の親戚の男に聞いた話である。彼の親戚筋に当たり、私の五島の中学時代の同級生である女性に、冬には大量のナマコを送っているという。彼女が癌にかかっていることは、 2 年ごとに行われていた中学の同窓会で聞いていた。ナマコは癌に効くという考えがあるので彼女が頼んできたようだ。実際、彼女はその癌が小さくなったと話したそうだ。その後の同窓会で会ったら、きわめて元気そうであった。ところで、私も何年か前に前立腺癌と診断された。ただし、治療は当分、必要がなく、経過観察になった。私もこの親戚に頼んで、ナマコを大量に送ってもらった。テニスの後の飲み席に持っていくと、皆が喜んでくれる。冷凍しておいて、小出しに毎日、1月は食べた。最初の癌診断がおりてから、 2 年経って再び生検を受けたところ、癌は見つからなかった。今のところ、血液の PSA 検査のみで経過観察となっている。 ナマコが効いたのかどうかは分からない。 年の瀬になって、年賀状の欠礼挨拶の葉書が、先の女性の夫から届き、この 11 月に亡くなったことを知った。彼女は発病してから 10 年は経っていたと思う。   ナマコを干したものはホシコと呼

作品の推敲

     高校からの友人とのゴルフの後に、その一人が経営している会社の事務所に誘われて行った。応接間には、 10 点ぐらいの油絵がかかっていた。なかなかの出来栄えである。一つは馬らしき動物の頭蓋骨を描いた見覚えがある構図である。それを指摘すると、メキシコの画家のものを真似たと話した。以前に見たものの印象に負けず劣らずと感じた。彼は、 70 歳過ぎた最近から、絵の先生に習っているそうだ。水彩を希望したのに対して、先生は油絵の方が易しいと言ったそうだ。確かに水彩は上から塗り直しが効かないので、難しいだろう。その点、油絵は何度も修正できる。   話を移そう。小説家、脚本家であった、井上ひさしは、作品の完成が遅いので、遅筆堂と名乗っていた。彼が主宰した、こまつ座にかける新作の脚本がなかなか出来上がらないので、稽古をやりながら初演日ギリギリまで待つことが何度もあったようだ。彼の場合、筆が遅いのではなく(娘さんの談)、作品の質を最後まで高める努力を続けていた。小説であれ、脚本であれ、彼は参考図書/文献を大量に読み込み、これをもとに作品を書いた。ある人が彼に参考にした書籍を貸して欲しいと頼んだら、箱いっぱいの資料が届き、その資料には無数の付箋と書き込みがあったそうである。   ここまで書いたのは、私の作品の推敲について語りたかったからである。私が日本数学会に論文を投稿して、落とされたことはすでにブログに書いた。私は、当初は仕方がないと諦めていた。五島の実家に半月ほど出かけて留守にしていた時には、当然のことながら、この論文のことは頭に無かった。自宅に戻って、溜まっていた用件を済ませて暇になると論文のことが気になり始めた。投稿したものが落とされると、誰しも愉快でない。しかも、その本質的な理由が何も示されずに、いわば門前払いであったので、心が治らない。どこか他の学会に投稿できないものかと思い、ネットで調べたら、米国数学会 (American Mathematical Society) が良さそうに感じた。日本数学会は純粋数学 (pure mathematics) とうたっているいるのに対して、米国数学会はこれに加えて、応用数学 (applied mathematics) も受け付けている。調べていると、原稿を専門家が読ん