時間の反転

 

私の博士論文の題目は「導波管接合サーキュレータの研究」である。これはマイクロ波電気回路の1つであり、不思議な性質を有している。端子は3つある。電波を端子1から入れると端子2に出てくる。端子2から入れると端子3から、端子3から入れると端子1から出る。電波が循環するように通行するのでサーキュレーターと呼ぶ。端子3に無反射終端器をつけると、端子1から2には通じるものの、端子2から入れると端子3で吸収されて、端子1には出てこなくなる。この性質から非逆回路と呼ばれる。

 

九大での博士論文の発表審査の際に、審査官の教授4人から試問を受けた。副査の1人の入江教授が、私が何度も使った「非可逆」と言うのはどういう意味かと問うた。物理の本質まで遡る鋭い質問である。私は、このことについて考えていたので、無事に切り抜けることができた。「私が言っているのはオンサーガー(L. Onsager)の言う非可逆性です。先生は、もしかして熱力学第二法則の時間の非可逆性(irreversible)を言われているのですか。これではありません」と答えた。主査の安浦教授は、「そうだね、回路の非相反性と言えばよかったね」と言葉を添えてくれた。オンサーガの(非)可逆定理は博士論文を書いていた当時に、NECの同期会の集まりの折、東大応用物理の大学院を出ていた鷲尾さんに教えてもらい勉強していたので助かった。時間の反転と可逆性(相反性)はオンサーガーの定理の説明で用いられている。

 

物理の動的現象は、時間及び空間に関する偏微分方程式で記述される。私の博士論文では電磁波を扱うのでマクスウェル方程式が出てくる。物理を扱うすべての微分方程式は時間tの反転、すなわちt -tと置き換えても同じ形になる。したがって、ある時間が経過した後、時間を逆転させると(ビデオテープの巻き戻しに当たる)、電波は戻る動きをする。ただし。この時の初期条件の全てで、時間の反転に対して影響を受ける物理量、例えば速度はその符号を負にしなければならない。オンサーガーの定理では、その他の初期条件として、直流磁界あるいは渦巻きも反転しなければならないと書いている。サーキュレータでは直流磁界の中に置かれた、異方性透磁率を有するフェライトが重要な働きをする。直流磁界の中でフェライトの磁気的性質は、コマが頭を振るような歳差運動で表される。磁界の向きを変えると歳差運動の方向が逆転する。したがって、直流磁界の向きをそのままにする、通常のサーキューレータは、非可逆性を示す。ただし、端子1から入れた電磁波が端子2に到達した瞬間に、直流磁界の向きを反転し、電磁波の初期条件を上に述べたように設定して、端子2から入力すると、電磁波はフイルムの逆回しのようにあたかも後ずさって、端子1に現れるはずである。これにはサーキュレータが電磁波に対して熱損失を与えないと言う条件が必要である。実際には  いくばくかの損失は必ずあるので、電磁波は減衰することになる。この状況で前述の仮想実験を行うと、端子2に減衰して現れた電磁波は、元の大きさに増幅されて現れる事は無い。同じように減衰して現れるのである。ただし、その減衰の大きさは全く同じである。この現象を回路の相反(可逆)性と呼ぶ

 

このように、熱損失がある物理系では、時間の逆転現象は観測されない。これはいわゆるエントロピー増大の法則として知られている。この問題を私はずっと考えてきた。これに関連して最近になって、後述する本を読んだのをきっかけで、このブログを書き始めることにした。エントロピー増大の法則はコップの水にインクを1滴垂らした場合に現れる現象でよく説明される。インクはコップの中に拡散していき、いくら時間が経とうとも、時間が逆転したような現象、すなわち、広がったインクが1点に集まってくるような事は起こらない。なぜだろうか。もしインクの拡散を表す微分方程式が得られたとしたら、これまでの物理現象と同じように、時間の反転に対して同じ性質を示すと十分に考えられる。分かりやすい例を考えてみよう。リンゴが食卓の端にあって何かの原因で下に落ちるとしよう。これを記述する運動方程式は、時間に対する2次の微分方程式(ニュートンの運動式)で表される(空気の摩擦などの熱損失を無視する)。床に落ちた瞬間のリンゴの速度を、大きさが同じで向きを逆にして打ち上げると、リンゴは元にあったテーブル位置に着地するはずである。ただし、このような出来事を見た人は誰もいないだろう。バネか何かを使って実験すれば良いだろうが、初期値をぴったり合わせる事は至難の業である。これに対して、食卓の上のリンゴを落とす事は訳は無い。

 

先程のインクの拡散について話を戻す。たとえ、運動方程式が得られたとしても、拡散の途中で初期条件をうまく合わせて、インクを元の場所に戻すのは不可能に近い。何せ水の分子の数もインクの粒子も莫大な数であるから、それらに対する初期条件を設定することができないだろう。もし、インクの拡散を表現する微分方程式が非線形であり、さらに特別にカオス運動方程式であれば、その困難さはさらに高まる。カオス運動は初期値にものすごく敏感であり、初期値の相対誤差がごくわずか、例えば電子計算機で表現できる最小の数値であっても、得られる結果はとんでもなく異なることが知られている(バタフライ効果)。

 

先に示したサーキュレータにおいて、熱損失を表す微分方程式が得られ、マックスウェルの電磁波方程式に組み込まれたと仮定しよう。熱損失を与える電子の数は膨大である。これら11個について、初期条件を正確に与え、同時に直流磁界の向きを反転して、端子2から入れると、電磁波は増幅されて端子1に戻り、元の電磁波が得られるはずである。しかし、このような操作はまず無理である。

 

時間の反転だけではなく、時間そのものの認識もいろいろ言われている。例えば、時間と言う概念は、犬などの動物にはなく、我々人類だけが頭の中で作り上げた幻想ではないかと言うものもある。また、相対性理論では絶対時間は否定され、時間の進み方が運動によって異なる。これは実験で証明されている。宇宙が始まる前には、時間が虚数であったと言うのもある。最後に、先に述べた本を紹介してこのブログを終わりにしたい。高水祐一、「時間は逆戻りするか、宇宙から量子まで可能性の全て」、ブルーバックス2020。その帯には次のように書かれてある。自然界の多くは対称性を持っているのになぜ時間は1方向にしか流れないのか。物理学者たちを悩ませてきた究極の問いに、ホーキング博士の晩年に師事し薫陶を受けた著者が、理論物理学の最新の知見を縦横に駆使して答える。量子レベルで観測された時間の逆戻りとは、時間が消えてしまう宇宙モデルとは、読めば時間が逆戻りしそうに思えてくる。

 

この本は、時間の逆戻り以外にも、次のような話題を解説してくれる。量子力学、ループ量子理論、人間原理、タキオン、相対性理論、ブラックホール、サイクリック宇宙、超弦理論、ダークエネルギー、虚数時間宇宙、エントロピー、ブレーン宇宙。

 

解説の仕方は、帯にある宣伝文句以上によくできている。

コメント

  1. 先生、自然界の対称性を成すものに時間もあるのでは?
    それが過去と未来。全て物理界には時間軸が必要で与えられる課題には現在軸が必要だと思います。すなわち、人間が限界を感じるだけで時空移動は可能かもしれません。非可逆ではなく可逆性をもってです。概念の問題だと思います。いずれ肉体的克服かテクノロジーの発達が革命を起こす気がします。もっと柔軟な頭の使い方が大事だと、、

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