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風のみを動力とする車が風の速さよりも速く走れるか

  以前のブログに書いたヨットの 風上進行の原理 について、私があげた条件 の不備を指摘した甥っ子より、 表題の論争 を紹介された。米国の物理 学者 2 人が 1 万 ドルの金をかけて論争をしている。 1 人は デレク・ミュラー( A とする)という、有名な YouTuber である。 物理学の博士号を持っていると紹介されている。もう 1 人は アレクサンダー・クセンコ( B )である。有名な物理学研究施設 カブリ数物連携宇宙研究機構 所属の物理学者である。   ミュラー (A): プロペラを 乗 せてこれで車輪を回せば可能 クセンコ( B ) : 物理原理からして不可能 参考 : ヨットは風速の 2 〜 3 倍で走ることが可能。ただし風に 対 して 斜め方向のとき。同じ方向ではダメ。 カリフォルニア近くの砂漠で実際に人が 乗 って実 験 を行った。その 結果、 A は自分が正しいと言う結論を出した。彼の説明は、プロペラの羽根が風向きに対して斜め方向に回転しているのが鍵だと言っているように思える。確かに、プロペラの先端は風の速さよりも速いだろう。しかし、これが根拠になり得るか。   これに 対 して、 B は実 験 の不備を指摘した。実 験 結果は速度が一定でない特殊な 状 態 での結果であると主張している。すなわち風が急に弱まって、 風速が落ちた直後では、車の運動エネルギーにより風よりも速く走 る。その結果を示しただけである。定常 状 態での実 験 を行うべきだ と主張した。それで、まだ決着がついていない。   これは昔に 読 んだ、板倉聖宣の本、 「 仮 説 実 験 授業」の大人専門家版であ ると言える。いかにも米国らしい 楽 しい話である。   私は B に賭ける。 そして実 験 の改良を次のように提案する。     (1) 実 験 精度向上と費用削減のために 、車を小型化する。   (2) 半 径 1 メーター位の半円筒(トンネル)の中で実 験 する   (3) 風は送風機で送る   (4) できればプロペラ推進機構を 1 方向のみにする。すなわち、    車輪からのプロペラへの力の伝達はできない歯車を作う。    こうすれ ば、風と車の相

英文法の「なぜ」、朝尾幸次郎、大修館書店

  「英語の歴史をたどれば、現代英語の「なぜ」の起源が見えてくる。英語の「進化」の過程をひもとくと、もともとあった「規則」が現れます」、と帯に書いてある。導入として聖書の 1 文の表記についての変遷が次のように紹介される。 日本語訳では次のようになる。 (1) 天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように 現在の英語 (2) Our father in heaven, help us to honor your name   近代英語 (1500~1990 年 ) (3) Our Father which art in heaven, Hallowed be thy name 中英語 (1380 年頃 )       ウーれ ファーディる さット アるト イン ヘベネス ハーレウイッド ベー すイー なーめ (4)   Oure fadir that art in heuenes, halewid be thi name 古英語 (449~ 1100 年頃 ) ファーディる   ウーれ スー せ エアるト オン へオウ“オスム フィー すイーン ナマ イエハールド (4)   Faeder ure pu pe eart on heofonum, Si pin nama gehalgod 古英語を見ると、ドイツ語を習ったことがある人は、それとよく似ていることがわかる。発音もいわゆるドイツ語と同じようにローマ字読みに近く、文法も似ている。その理由は、この時代はゲルマン民族のアングロ (Angles) 、サクソン (Saxons) 及びジュ - ト (Jutos) 部族がブリテン島に侵入してきたからだ。   著者はまず英国の歴史を次のように紹介する。紀元前にイギリスのブリテン島にはケルト系のブリトン人 (Britons) がいた。ブリテン島の由来は彼らから来ている。彼らはもともとヨーロッパ各地に分布していたが、民族のせめぎ合いの中で、ブリテン島南部に移り住んでいた。紀元前後、ローマの侵略を受け支配下に置かれる。西暦 449 年に上記のようにゲルマン民族が侵入し、英語の歴史が始まった。 英語はドイツ語やフランス語に比

津田左右吉、「古事記及び日本書紀の研究」

この本は昭和15年に発売禁止になっている。昨年11月に再発行された。著者の津田左右吉については、石渡信一郎の著作の中で触れられいたので気になっていた。戦時中に発禁となったので余計に興味が募る。読み終えてみて、至極真っ当な論述であると思った。なぜ発禁になったのか納得できない。当時、東大総長であった南原繁が前文を書いている。昭和14年に東大法学部に東洋政治思想史の講座が新設された。南原が、早稲田大学にいた津田を講座担当に推薦した。南原が言うように、津田の著作は何ら問題はない。軍部政府が言うような天皇家に不敬などではなく、かえって尊敬の念を抱いていたと書いてある。 古事記と日本書紀を対比させながら、その記述の信憑性を論じている。神代の話は当然として、神武天皇からの8代は作られた話である事は間違いない。この部分を先人たち、例えば新井白石や本居宣長などが、なぜそのような論を展開したかについての説明は説得的である。  私が特に興味を持ったのは、応神天皇から継体天皇までの5代の記述に疑問を呈しているところにある。石渡信一郎はこの点で津田の論にヒントを得たのではないだろうか。実際には2人の間には天皇は存在していないと、彼は主張している。応神と継体は兄弟であり相次いで即位したとしている。なぜこの事実を隠す必要があったのか。それは、その後、即位をめぐる争い(クーデタ)がこの兄弟の直系の間で何度も起こったことを隠す必要があったからだと、石渡信一郎は述べている。  津田のこの本を発禁にしたいきさつを考えてみたい。それは明治維新政府の生い立ちにさかのぼる必要がある。大久保利通らの政府要人が欧米の長い視察に出かけて感じた事は、今後の戦争は国家をあげての総力戦になることだ。そのため、国民をまとめ上げる必要がある。欧米ではその手段としてキリスト教があるのに対して、日本にはそれにあたるものがないと彼らは考えた。そこで、天皇及び神道を祭り上げた。指導者たちは、心から天皇をそんなに崇拝していなかったと言う説がある。伊藤博文などは天皇家から金をむしりとっていたと読んだことがある。ただし1部の右翼や軍人及び国民は心から尊敬していたのであろう。津田も日本書紀の記述は別として、天皇制度そのものに反対しているわけでは無いようである。  ひどいのは軍部の上層部である。明治天皇は、日清戦争、日露戦争には反対であった