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鳩のヒナ

  我が家の南側には、長い廊下がある。その庭側の一部には、夏の日差しを避けるために藤棚がある。最初の孫が生まれたとき、苗を買って植えたので、娘は孫藤と呼んでいる。その孫は、今、小学 4 年生なので、藤棚はかなり繁っている。ここに、鳩が巣を作ったのは、今思うと多分一月前ぐらいだろう。下に糞が落ちておりその量が次第に増えていたことには、気がついていたものの、夜の間のねぐらにしてだけだと思っていた。   朝に雨戸を開けるとき、鳩が藤棚から飛び出したことが何度かあった。廊下のすぐ先に巣を作っており、その中に 2 羽のヒナがいるのを、ある朝に見つけた。だいぶ大きくなっていた。親鳥はいなかった。今まで気がつかなかったのは、 2 羽とも微動だにしないで、木の枝の一部と見えたからだろう。家内を呼んで静かに見るように言った。家内は見つけるのに少し時間がかかった。家内が来ても動かない。大道芸人が道端で、マネキンのような派手な服装をして、少しも動かないで、展示物のように演じているのを最初に観た時には驚いた。時間をおいて、やおら少し動くからである。それと同じ演技を 2 羽のヒナが演じている。同じ姿勢をずっと続けるのは疲れることだろう。ヒナもそうだろうと思って、時間をおいてまた見に行くと、動かないのは同じものの、向きは 90 度ぐらい変わっている。今度の方が鳩の胸がよく見えた。   ヒナ鳥が動かないのは、敵の目に付きにくいようにするためであろう。これを親鳥が教えるとは思えないので、生まれつき持っている本能のなせるものだ。たまたま、娘が私の誕生日祝いを持ってきたので、娘も見ることになった。彼女は、ヒナの行いを称して、健気だと表現した。確かに、じっと大人しくしている姿は、親の言いつけを健気に守っている子供に例えることができる。私は、例によって、鳩がどのようにして、この本能を獲得したかと二人に問うた。二人とも答えられない。私の答えはいつも次のとおりだ。「このような本能を持っていない鳥は、敵に見つかり食べられてしまって絶滅した」というものだ。こう言われると誰も反論できない。確かめようがないからだ。   その後、数日して、 1 羽の姿が見えなくなった。巣立ちしたのだろう。残っている方を、再度見に行ったら、今度は、首のみ少し動かして私を見た。

瀬戸内寂聴の「自助」

  彼女が新聞に書いている随筆は、ほとんど目を通している。前回のものは、読んだ後、違和感を覚えた。菅総理大臣の言葉と関連して、「自助」に触れたものだ。彼の言葉に全面的に賛意を表している。   彼女は、若いとき辛い体験をした。誰も彼女を助けてくれなかった(母親が同情した?)。父親には、いわゆる絶縁をされたと書いた。自分は、誰の助けも借りずにここまで生きてきたという趣旨である。だから、菅総理の言うことはもっともだと言いたいのだろう。誰しも、辛い体験はある。これに、できるだけ自分で対処しようとするのは当然である。自助という言葉もそれ自体は良い。しかし、問題はふりかかった困難の種類である。   彼女の辛い体験は離婚だと書いてある。いきさつは書いていない。それがどのようなものであったのか、例によってネットで調べてみた。その記事は、具体的に書いてあるので、そんなに間違っていないと思う。他人の私生活に触れるのは好きでないのであれこれは書きたくない。見合い結婚した夫(学者)、置いて出た娘、離婚の原因となった若い男、作家の井上光晴とその娘(作家)のことが書かれている。この中で知っているのは、井上光晴である。大学時代によく読んでいた雑誌、「文学界」(その他は、「展望」と「朝日ジャーナル」)で何度か読んだ思う。良い印象を持っている。瀬戸内寂聴(当時は晴美)も読んだかもしれないが、しかし、印象に残っていない。出家した寂聴自身が井上光晴のことを書いたのを新聞の欄で読んだと思う。覚えているのは、彼が妻(娘?)の才能に嫉妬していたと書いたところである。   彼女の辛い経験はわかる。しかし、その原因は自分が選んだ判断の結果である。それに対して、運に恵まれないで、自分ではどうしようもない困難もある。瀬戸内さんに残された子供もそうかもしれないし、貧乏に生まれたので身売りに出された昔の農村の娘は、はっきりそうだ。広く見れば、飢餓に襲われているアフリカで育っている子供もそうかもしれない。菅総理の言う「自助」はその背景を考えると納得できない。ただし、今の世代は、そんなに息苦しさを表明していないと言われる。確かに表面的には、そう見える。宮台真司は、「非正規の安い給料で働いている人と、 IT 企業の高給取りの人が、スターバックスで隣り合わせで座ってい

清張の語る芥川と三島

  車の中を片付けていたら、松本清張の小説を朗読した CD が出てきた。伊都に移転して遠くになった九大に通うとき、高速道路での単調な車運転中に聞くために、だいぶ前に買ったものだ。その他にもたくさんの作家のものがあり、全部で 40 枚ある。清張のものには、短編、「サブ」と「足袋」の他に、彼自身が喋った講演の録音が入っている。「サブ」と「足袋」は山崎力が朗読している。どちらも、中年独身女性の悲哀をよく描写している。しかも、聞いていて、すっと耳に入る文章だ。   松本清張は朝日新聞(北九州)でデザイン関係の下働きの仕事をしていた。文壇に登場したのは、だいぶ年を取ってからである。「ある小倉日記伝」で芥川賞を取った。ここでは、彼のこの講演の内容を私なりの見解も交えて紹介したい。原稿に目を通して喋っている様子はなく、語り口は低音で淀みなく聴きやすい。   話の出だしは、「小説は 40 歳を過ぎてから書くべきだ」という菊池寛の言葉を引用して始まる。その理由として、若いときには人生経験が浅いので、書くことがなくなり、行きつまると言う。例として、芥川龍之介を上げ、話を進める。彼は、東京大学(清張は有名大学を嫌う。ただし息子は東大)の学生のときに書いた小説「芋粥」が、特に、夏目漱石の高い評価を得て、有名になった。ただし、彼の題材は、今昔物語などから引っ張ってきており、(例えば、「藪の中」、「羅生門」)、その内容を現代風にひっくり返して表現する手法のみであったと話している。後では、志賀直哉などの自然派主義的な題材のもの、例えば、「みかん」、を書いてはいるものの、清張に言わせると駄作であったそうだ(私はそうとは思えないが)。芥川は横須賀にある海軍の学校で教えていた。そこに通う際のことも書いてあると話した。ただし、清張はかっている風ではない。最後には、小説家として行きつまって、「ぼんやりとした不安」という言葉を残して自殺したと結んだ。   次は三島由紀男について語った。彼は滅びの美学というものを見つけ出し、「金閣寺」を書いた。ただし、これ以外の新しい発想は見つけられずに、頭の中は自転車操業状態となり、ついには、自衛隊に乗り込んでの自決に至ったと話す。後半では、「憂国」など、国家主義的な言説のものを書いたものの、これは、文学的、形式

松尾芭蕉と河合曾良

  曾良が芭蕉の弟子であることを知っている人は多いだろう。彼が壱岐の島で死んだことについてはどうだろうか。彼がここで死んだことを知ったのは、彼の句碑がそこにあると知って見に行ってのことだ。九大に移った年の夏、研究室の学生 20 名ぐらいで、恒例の合宿旅行に行った。九工大に指導する大学院生が残っていたので、双方の学生が合わせて参加した。雨が降ったので泳ぐはやめて、レンターで島巡りをしたときのことである。   句は幾つかあったと思う。その中で今でも覚えているのは、 ゆきゆきてたおれふすともはぎのはな である。この句を、母校である長崎南高校の開校 35(?) 周年記念日に呼ばれて、体育館で講演したさい、話の締めくくりに紹介した。持ち時間に追われていたので、スライドに写して 2 回読み上げただけである。後でお礼の手紙に添えて、原稿用紙一枚ごとに書いた生徒たちの感想文がたくさん送られてきた。(ある組のものには、担任の先生の印が押してあった。先生がチェックした印かもしれない)。その中の一つのあるところに、「赤岩先生が曾良の句を紹介したのは我々へのエールだと思う」と書いてあった。そのこともあったので今でも覚えている次第である。講演題目は「私の学生、会社、大学時代」である。私のブログに同じ題目で掲載しているのは、九工大のとき、飯塚にある嘉穂高校の文化祭で喋ったもの。話はこれとかなり重なっているものの、母校であるから先輩の体験談として、私的なこともだいぶ喋った。例えば、「赤岩先生は、女にフラれたので研究に打ち込んだそうだ」と書いてある感想文があった。私はたまたま運に恵まれた人生であったけれども、ここにいる皆さんが高校を出てどのような体験をするか分からない。もしかして、道半ばで倒れるかもしれない。そのときは、この句が表明している態度を胸のうちに抱いて生きて行ってくださいと言いたかった。先にあげた学生は、私の思いをはっきりつかんでくれていた。   南高での話で、曾良が壱岐で死んだのは毒を盛られたからかもと言おうと思ったけど、止めることにした。彼の旅の目的地は対馬であった。対馬藩は日本と韓国の外交窓口であったので、両国の間にあって相当苦労している。   昨日、 NHK BS をつけてみたら、松尾芭蕉について、歴史家の磯田

日本数学会への論文投稿(続き)

  以前 のブログに書いた数学論文投稿に関して、返事が来ました。案じていた残念な結果です。案じていたとは、別のブログで示した「絶対可積分でない関数のフーリエ変換」のまえがきに書いた部分、「 私は数学の学会誌に投稿すべきだったのかもしれない。ただし、記述が数学的に不正確で、論文の可否の判断がつかないとして、拒絶されたことだろう」の部分である。下記に示すように、論文が否であることは、中身を精査することなく、パッと見て判断されたようです。   Dear Professor Akaiwa,   Thank you for allowing us to consider your manuscript, ” The Fourier transform of not absolutely-integrable functions” for publication in the Journal of the Mathematical Society of Japan.     We do not have a full referee report, but quick opinions gathered suggest that it would be difficult to convince the full editorial board to accept the article.  Our journal's very strict standards force the editors to be extremely selective among competing articles. Therefore, rather than begin a refereeing process that could take months, I am returning your manuscript to you now.   拒絶の理由が何も述べられていないのは、せっかく投稿した意味がない。落とされるとしても、専門家の意見を聞きたかったのですから。その後、二人の知人に、いきさつと意見を求めたところ、次のような返事が来ましたので紹介します。   1.   日本 数 学会のジャーナルは 厳 密な形