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小泉 悠

  私はあまりテレビを見ない。それで、テレビで報道される事件はともかく、番組によく登場する話題の人物を知るのは、皆さんあるいはカミさんよりだいぶ後になってのことである。小泉悠については、 NHK の「日曜討論」で初めて見た。司会者を正面にして、左側には東郷和彦と小泉悠、右側には外務省のトップ ( 事務次官? ) 上りの男と、名前のみを聞いたことがあるような評論家が座っていた。テレビを見ながら、カミさんに小泉悠のことを聞くと、だいぶ前からテレビによく出ているそうだ。 ウクライナ侵攻事件が始まってからの後のことであり、世界の情勢について、これらの識者が意見を述べ合った。最初は外務官僚上がりの男と東郷和彦が主に喋った。東郷和彦は、彼の著書や佐藤優の書いたものでそこそこ知っていた。彼の祖父 ( 母方 ) は第二次世界大戦時に外務大臣を務めた東郷茂徳、父親は元外交官の東郷文彦である。今回、調べてみると、 1945 年生まれで私と同じ年である。 1968 年に東大教養学部を出て外務省に入っている。その他に、彼の先祖について興味あることが書かれてある。彼は鈴木宗男事件をきっかけとして、 2002 年に罷免されたそうだ。佐藤優の書いたものによると、彼は当時、佐藤の上司であり、外務省は彼の逮捕を免がせるために外国へ逃げさせたとあった。そして 1 人で罪を着せられたのが佐藤優であった:「国家の罠」 ( 新潮社 )) 。   人間そこそこの年齢になると、話しているときの仕草、特に顔の表情にその人の人間性が現れるのは隠せない。外務トップ官僚上りの男に比べると、東郷和彦ははるか格上のように、私には見えた。   話が小泉悠に振られた。彼が話し始めてすぐに好印象を持った。言うことが全て本質をついており、また、その話しぶりがわかりやすい。肩書が画面に出て、東京大学先端科学技術研究センター専任講師とあった。小泉悠は私の見る限り、私の持っている東大系の研究者の印象とはずいぶん異なる。後で知ったことではあるが、彼の経歴は面白い。早稲田大学大学院政治学研究院を 2007 年に卒業して、電機機器メーカーに就職して営業を担当した。仕事のミスで連日、叱責されて 1 年で退職したようだ。元々は軍事オタクであったとは本人の弁である。 興味を持

FRP製 伝馬船「繁丸」

繁丸は、実家がある五島奈留島の船揚げ場の片隅に長らく置かれたままになっていた。終活の一環として、そろそろ処分しようかと考えていた。私の長男の名前(繁)はこの船と同じであり、父、繁三郎からとっている。この夏に、長男一家が久しぶりに奈留島に来た。私は1人でだいぶ先に来ていた。知り合いの業者に、解体処分を頼もうと思ったものの、なかなか踏ん切りがつかなかった。その理由は以下に書くように、この船には、これまでの思い出がたくさん詰まっているからだろう。   話は、私が婚約した年の夏に、奈留島に初めて彼女を連れてきた時から始まる。私の婚約を祝ったかどうかはわからないものの、新造船のこの船が実家のすぐ前の浜に置いてある。手漕ぎのための艪(ロ)とスズキの 8馬力の船外機が備えてあった。父が言うには、父のすぐ下の弟が展示会に出していたものを安く譲ってくれたそうだ。父の弟は、当時、ヤンマーディーゼルの五島地区の総代理店をしていた。漁業の景気が良かったので、船のエンジンがよく売れ、羽振りが良かった。この船はヤマハが作ったFRP製のものであり、五島地区では最初に持ち込まれたそうだ。  FRP船の工法については、会社 (NEC) の社員教育研修において、発想法の指導を受けたときに、その開発の裏話が出た事で知っていた。発想法としては、KJ (川喜田二郎:東京工業大学の名誉教授) 法とNM (中山正和) 法が有名である。その他にも山手線法なるものも教えられた。FRP船は中山正和がヤマハに勤めていた時、ボート開発を命じられた際に発明したと聞いた。いろいろ試行錯誤があったようだ。結局、ガラス繊維に液体プラスチックを染み込ませ、これを幾層にも重ね合わせてから、硬化させるものである。その時の上司が、今言うパワハラに近かったので、中山は開発に成功した後、辞表を叩きつけて退社した、と言う話が今でも印象に残っている。   話を元に戻す。この船はFRP製といっても、甲板は無く、昔の和船のように板張りとなっていた。その何年か後に、甲板もFRP張りになっていた。父が言うには、素人が安くで加工してくれたそうだ。細工のまずさのために、甲板に何箇所か設けた水 (アカ:aquaの訛りか)汲み出し用の開口部の穴の立ち上がりが十分でなく、水が侵入して沈みそうになったことがあった。当時小学生であった息子2人を連れて、岬を廻って隣の

数学論文投稿(電子情報通信学会 5度目の拒絶と6度目の投稿)

 またもや、拒絶通知が来ました。少し期待していたので残念です。拒絶理由に対する私の回答をつけて、 6度目の投稿 をしました。興味がある方は、 私の回答 (日本語で書いてある)だけでも読んでみてください。    編集者、査読委員との間の議論が核心に近づいています。私は、今回も彼らの意見のほとんどに、反論しております。数学の専門家と思しき方々と、いろいろ討論できていることを、終活の一つとして楽しめてうれしいかぎりです。

井上ひさし、ベイトソン、シェイクスピア

  これらの名前を知っている人でも、私がなぜこの 3 名を挙げているかはわからないでしょう。実は、井上ひさしの残した随筆のうち、単行本として出ていないのものをまとめた「この世の真実が見えてくる」 ( 発掘エッセイ・セレクション II 、岩波書店 ) を、つい最近、買って読んだのが発端である。ベイトソンは 2 番目の話題「未来を開く現代のコペルニクスたち - ベイトソン、ベネガット、エンデ ( 「朝日ジャーナル」、 1984 年 8 月 3 日号 ) に出ていた。私は彼らの本を読んだことがない。井上ひさしがまず紹介しているのが、ベイトソンの「精神と自然」 ( 思索社、 1982 年 ) である。この本については、会社同期入社の井上くんが言及していたように思ったのと、井上ひさしがずいぶんと楽しく引用しているので、改訂普及版を買って読んだ。 井上ひさしの紹介文を引用するのが手っ取り早い。   グレゴリー・ベイトソンの「精神と自然」 ( 佐藤良明訳 ) は、不思議な書物である。生物学に始まって、文化人類学、サイバネティックス、情報理論、そして精神医学に至る、いわゆる現代の花形学問についての高度な理論や考察が、ヴィトゲンシュタイン流の箴言文体で ( 素人目には無造作に ) ごろごろ投げ出されている、かと思えば、無邪気で馬鹿にわかりやすい例え話があちこちで鼠花火よろしく勢い良く跳ねている。難解な理屈に閉口し、巻を閉じて書庫へ放り込もうかと思い始めると、それを待ち伏せていたかのように面白い例え話が現れて、こちらをたちまち愉快にさせてくれる。 ( 先が読みたいが、読みたくない。読みたくないが、でもやはり読みたい。これはベイトソンが主唱した二重拘束風 ( ダブルバインド ) 状況である。例え話の中の 1 つが懐かしかった。人間社会の変わり具合や、人間を取り巻く生態系の変動を、当の人間が知るのは難しいことを説くのに、ベイトソンは「鍋の中のカエル」の例え話を持ち出すが、これは山形県南部の子供たちが、昔、熱中した実験でもあった。 << ・・・水を入れた鍋の中にをカエルをそっと座らせておき、今こそ跳び出す時だと悟られぬように、極めてゆっくりかつスムーズに温度を上げていくと、カエルは結局跳び出さずにゆで上がってしまう

人間の心

  A. ダマシオの著作、「意識と自己」に続いて、彼のその前の本、「デカルトの誤り」を読んだ。人間が考える ( 心 ) ことについて、前から興味があったからである。ついでに、下條信輔の「意識とはなんだろうか」を買って読んだ。さらに、だいぶ前に読んだ、 M. マッスーニと J. トノーニの「意識はいつ生まれるか」を取り出して、ざっと読み直してみた。ここでは、これらの本の感想と、私が今まで本を読んだことをもとにして考えてきた新人類の心について、思いつくまま書いてみる。 下條信輔は、京都大学、心未来研究者センターが主催したシンポジウムの 1 つの録画を見て知った。このシンポジウムではセンター長の河合俊雄が司会をして、パネリストに中沢新一、下條信輔、並びに山極寿一がいた。河合俊雄は有名な心理学者、河合隼雄の息子だそうだ。中沢新一は、東大教養学部で当時の西部邁が進めた教授人事の候補者であったけど反対された宗教学者である。山極寿一は霊長類が専門で総長を務めた。パネリストの発言で印象に残ったのは山極寿一のみである。ゴリラの「食」と「性」の有り様が人間とは反対であると言う事実とその理由の解説をした。ゴリラは人間とは反対に、「食」を隠し、「性」(行為)は公にするそうだ。司会者と中沢新一については、何か痛々しい印象を受けた。下條はそこそこの印象だったので上に書いた彼の本を買った。その本を読んだ限りでは、私の問題とする本質にはさほど役に立たなかった。 「デカルトの誤り」 ( 原題: Descartes’ Error ; Emotion, Reason and the Human Brain) は、人間の心と肉体を 2 つに分けて考える事は間違いであると要約できるだろう。著書を有名にしたのは「ソフテック(身体)・マーカー仮説」の提唱だそうだ。本の裏表紙には次のように書いてある。 著者は、日常生活の折々の場面で求められる合理的な意思決定には、その時の身体状態と不可分に結びついている情動と感情の作用が不可欠であることを明らかにした。神経科学の第一人者が、今も様々な形で社会に浸透しているデカルト的心身二元論を強く批判しつつ、有機体としての心 - 脳 - 身体の関係を解くベストセラー。   彼は脳神経科の臨床医師でもある。したがって、こ

邪馬台国の全解決 ( 孫 栄健 著)

  読む本がなくなったので、本棚を見ていたらこれを見つけた。ぱっと読んでみて何も思い出せない。面白くて、 346 ページ数を 1 日で読み終えた。発行日を見ると、 2018 年 3 月 ( 第 2刷) とあるから、少なくとも 4 年前には買ったはずだ。買ったものの、何かに紛れて本棚にしまいこんでいたのだろう。   副題には「中国「正史」が全てを解いていた」とある。ここで、その「正史」とは、当然、「三国志の魏の倭人伝」(西暦 220 〜 280 年)を含む。著者はそのほかに、「後漢書」 ( 西暦 25 〜 220 年 ) と「晋書」 ( 西暦 265 〜 420 年 ) を同じように重要視する。これらの本の著者は、それぞれ、陳寿、 范曄 ( はんよう ) 及び房玄齢である。年代は「後漢」の方が先であるものの、本が書かれたのは「三国志」が先である。その理由は、「後漢書」は、陳寿と同時代の何人かの史家が書いてあったものを、後で 范曄 が纏め上げたからである。   この本の著者、孫栄健 ( 大阪在住 ) は、上にあげた 3 人の著者が同じ事実について書いた内容のわずかな違いに注目し、隠された真実を明らかにしている。陳寿が書き残した秘密を含んだ(暗号)文章を、後の 2 人が正しく読み解いて ( 復号 ) いると指摘している。文章家としての彼らの力量をもとにした、時代を経た心の交流を、現代のこの本の著者、孫栄健も楽しんでいる。   最初の著者、陳寿はなぜ暗号化したのか、あるいは事実と異なることを書いたのか、より、はっきり言えば、書かざるを得なかったのか。著者によれば、陳寿は歴史を書き残した人ではあるものの、当時の魏王朝に仕える官吏の 1 人であった。それで、王室に対して都合の悪い事実はそのまま書くことができなかった。忖度しなければならならなかった。これは「漢書」を著した班固とは異なる。彼は独立した歴史学者であり、しっかりと真実を書けた。陳寿が、いわば暗号化して書くことは、筆法と呼んでいる。この方法は、春秋筆法とも言われ、孔子が「春秋」を著したことに源を発しているそうだ。普通の人にはわからないけれども、能力のある(後代の)史家には真実がそれとなくわかるように、書く手法である。それを受け止めて、「後漢書」の著者、

C&Cとデジタル

  今ではあまり聞かれない C&C は、 NEC の経営標語であった ( ある ?) 。当時の小林宏治社長が、計算機と通信機が融合して、これまでにないシステム、サービスを実現させると、ある国際会議でぶち上げたものだ。その中核がデジタル技術である。計算機のデジタル化が先行しており、通信のデジタル化も始まっていた。デジタル化を物理的に実現する手段は、デジタル大規模半導体回路 (LSI) である。 NEC はこれらのすべての技術分野を擁しているので、未来があるとの主張であろう。  NEC のその次の社長には、中央研究所出身の関本忠雄氏がついた。彼は、元通信研究部の部長だったので、社長就任祝いの会が開かれた。若手 2 人がお祝いの挨拶をすることになり、私もなぜかその 1 人に指名された。私は言った。「あなたは NEC の経営方針である C&C について、これは優れて経営問題であると言っている。私もそうだと思う。計算機と通信機が主導権争をするだろうから、経営者としてその舵取りが難しいと思う。そのためには、社長として孤独な決断をしなければならない。あなたはその役を受けることになった。我々は社員の 1 人として支えていきたい」。彼は返事の挨拶で、「社長は孤独だと、いろんな人に言われる。しかし俺は皆とワイワイやるのが好きなので、そんなに心配はしていない」と答えた。 現在、 C&C の事業としての成功は、提唱した NEC ではなく、競争相手だった富士通のほうに分がある。株価を見てもそれはわかる。なぜこのような結果になったのかを考えてみよう。富士通は事業として、計算機の方が通信機よりもはるかに大きかった。そのために、計算機主導の経営が進んだものと思う。それはビジネスの理にかなっている。デジタル通信情報サービスからしたら、計算機 ( 情報 ) の方が最終顧客に近い。通信は裏方になるので顧客からは見えにくい。それで、計算機が事業の表に出る方が自然である。またデジタル化によって通信ネットワークの装置コストが大きく下がったことも一因かもしれない。計算機も同様ではあるが、情報処理サービスは通信サービスよりも市場規模が大きいのだろう。 自動車電話の登場した初期の頃には通話が主なので、通信端末が顧客とつながる接点であ