邪馬台国の全解決 ( 孫 栄健 著)

 

読む本がなくなったので、本棚を見ていたらこれを見つけた。ぱっと読んでみて何も思い出せない。面白くて、346ページ数を1日で読み終えた。発行日を見ると、20183(2刷)とあるから、少なくとも4年前には買ったはずだ。買ったものの、何かに紛れて本棚にしまいこんでいたのだろう。

 

副題には「中国「正史」が全てを解いていた」とある。ここで、その「正史」とは、当然、「三国志の魏の倭人伝」(西暦220280年)を含む。著者はそのほかに、「後漢書」 (西暦25220)と「晋書」(西暦265420)を同じように重要視する。これらの本の著者は、それぞれ、陳寿、范曄(はんよう)及び房玄齢である。年代は「後漢」の方が先であるものの、本が書かれたのは「三国志」が先である。その理由は、「後漢書」は、陳寿と同時代の何人かの史家が書いてあったものを、後で范曄が纏め上げたからである。

 

この本の著者、孫栄健 (大阪在住) は、上にあげた3人の著者が同じ事実について書いた内容のわずかな違いに注目し、隠された真実を明らかにしている。陳寿が書き残した秘密を含んだ(暗号)文章を、後の2人が正しく読み解いて (復号) いると指摘している。文章家としての彼らの力量をもとにした、時代を経た心の交流を、現代のこの本の著者、孫栄健も楽しんでいる。

 

最初の著者、陳寿はなぜ暗号化したのか、あるいは事実と異なることを書いたのか、より、はっきり言えば、書かざるを得なかったのか。著者によれば、陳寿は歴史を書き残した人ではあるものの、当時の魏王朝に仕える官吏の1人であった。それで、王室に対して都合の悪い事実はそのまま書くことができなかった。忖度しなければならならなかった。これは「漢書」を著した班固とは異なる。彼は独立した歴史学者であり、しっかりと真実を書けた。陳寿が、いわば暗号化して書くことは、筆法と呼んでいる。この方法は、春秋筆法とも言われ、孔子が「春秋」を著したことに源を発しているそうだ。普通の人にはわからないけれども、能力のある(後代の)史家には真実がそれとなくわかるように、書く手法である。それを受け止めて、「後漢書」の著者、范曄と「晋書」の房玄齢が正しく解釈した。このような事実の書きぶりがあることは、私は石渡信一郎の著書で読んでいる。彼は日本書紀を著したのは藤原不比等としており、彼が事実を隠しながら、分かる人には真実が伝わる方法で書き残してあると指摘して、あっぱれと褒めているところがある。私は石渡渡信一郎もあっぱれと思う。

 

「三国志」の魏の国では、曹操が主人公である。その名参謀、司馬懿(仲達)は、蜀の劉備玄徳の参謀、諸葛亮(孔明)と並び称される。陳寿が働いた時代は、司馬懿の孫の代になる。司馬懿の不都合な真実とは、彼が昔、武功を立てた朝鮮半島、及び倭国 (後の日本) の統治に関する失敗である。朝鮮半島では韓族が叛旗を起こし、倭国では後で書くように卑弥呼の死に関する混乱が生じた。

 

著者は、邪馬台国は北部九州にあったとする。また、邪馬台国は30カ国の連合体としての呼称であり、卑弥呼の国は30カ国の中の国の1つであるとしている。その根拠は、魏から倭に至る旅程が、「倭人伝」では10倍に誇張されていること、及び、伊都国から各国への距離は、直線の数珠繋ぎではなく、放射状に記述していること、最北や最南などの記述もとにしている。これらは、すでに言われていることであり、新しくはない。ただし、説明がより説得的だと私には思える。

 

「魏志倭人伝」は何の目的で書かれたのか。単なる観光案内書の類ではない。それはもっぱら軍事目的、すなわち、東夷、南蛮、北狄、西戎と呼んだ外部民族をてなづけるための基礎データである。それで、公にされなくて秘密とされていた。距離を10倍にしたのは2つの理由があると、私はこれまで理解していた。1つは魏王朝の威光がずいぶんと遠くまで及んでいることを示すことである。もう一つは、当時、争っていた呉に対して、倭国の位置を正確に知らせたくなかったと言うものだ。この本によれば、司馬懿がこれを記録に残していたので、陳寿は、それが嘘だとわかっていても、正すことができなかったと言う指摘をしている。これらの3つの理由は矛盾するものではない。

 

さてこの本の最大の読み場について書こう。それは、卑弥呼の弟は「倭人伝」に出てくる難升米であり、一大卒を務めていた伊都国の王でもあったという結論である。この難升米は魏から、印授を受けた。すなわち王の位を認めてもらった。その後、その姉、卑弥呼を殺した。しかし、邪馬台国の他の国々がこれを認めずに戦乱になった。難升米はおそらく殺され、卑弥呼の宗女の壱与(台)が王になった。壱与は魏に朝貢している。この時に、魏より率善中郎将の爵位と印綬(銀印)を与えられた、揶邪狗が倭国の実権を握り、壱与の後見人(?)役だろうとしている。

 

ここに至ったのは、魏 (責任者は司馬懿)の対応の失敗であった。だから、陳寿は、この部分の事実を春秋の筆法を用いて書くしかなかったと言うのが、著者の主張である。著者の漢文に対する興味とその読解能力の高さは、この本の記述のあちこちで示されていると私は思う。

 

 この本の記述は過激であるものの、私は充分、説得的だと感じる。1ヵ月で第2刷が出ているので、古代史マニアに受けたのだろう。ところで、専門学者の意見あるいは反応はどうだったのだろうか(著者は、安元美典が発行した邪馬台国に関する雑誌で特集号を組んで紹介したと書いてある)。BS TBSでは、関口宏と保坂正康の「近現代史」が終わって、「古代史」シリーズが、同じく関口宏の司会で、松岡正剛と吉村武彦を招いて始まった。前回の放送は、邪馬台国に触れていた。その所在地は近畿の巻向遺跡であるかのような話であった。呪術に使わたと思われる桃の種が大量に出ていることをその1つの理由に挙げていた。これはたいした根拠にはならないと私は思う。保阪正康と吉村武彦の書いたものを比べると、後者は話にならないと私には思える。そう思うと面構えからして気に食わない。権威を帯びるいわゆる学者よりも、在野の研究者に私は親しみを覚える。

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