人間の心

 

A. ダマシオの著作、「意識と自己」に続いて、彼のその前の本、「デカルトの誤り」を読んだ。人間が考える()ことについて、前から興味があったからである。ついでに、下條信輔の「意識とはなんだろうか」を買って読んだ。さらに、だいぶ前に読んだ、M. マッスーニとJ. トノーニの「意識はいつ生まれるか」を取り出して、ざっと読み直してみた。ここでは、これらの本の感想と、私が今まで本を読んだことをもとにして考えてきた新人類の心について、思いつくまま書いてみる。


下條信輔は、京都大学、心未来研究者センターが主催したシンポジウムの1つの録画を見て知った。このシンポジウムではセンター長の河合俊雄が司会をして、パネリストに中沢新一、下條信輔、並びに山極寿一がいた。河合俊雄は有名な心理学者、河合隼雄の息子だそうだ。中沢新一は、東大教養学部で当時の西部邁が進めた教授人事の候補者であったけど反対された宗教学者である。山極寿一は霊長類が専門で総長を務めた。パネリストの発言で印象に残ったのは山極寿一のみである。ゴリラの「食」と「性」の有り様が人間とは反対であると言う事実とその理由の解説をした。ゴリラは人間とは反対に、「食」を隠し、「性」(行為)は公にするそうだ。司会者と中沢新一については、何か痛々しい印象を受けた。下條はそこそこの印象だったので上に書いた彼の本を買った。その本を読んだ限りでは、私の問題とする本質にはさほど役に立たなかった。


「デカルトの誤り」(原題:Descartes’ Error ; Emotion, Reason and the Human Brain)は、人間の心と肉体を2つに分けて考える事は間違いであると要約できるだろう。著書を有名にしたのは「ソフテック(身体)・マーカー仮説」の提唱だそうだ。本の裏表紙には次のように書いてある。著者は、日常生活の折々の場面で求められる合理的な意思決定には、その時の身体状態と不可分に結びついている情動と感情の作用が不可欠であることを明らかにした。神経科学の第一人者が、今も様々な形で社会に浸透しているデカルト的心身二元論を強く批判しつつ、有機体としての心 - - 身体の関係を解くベストセラー。

 

彼は脳神経科の臨床医師でもある。したがって、これまで彼自身の患者の診察経験を含めて、心と体がいかに強く結びついているかを具体的事例を用いて説得的に書いている。脳の各部がどのように精神と身体に関わり合っているかを、現代の脳神経科学は驚くほど明らかにしている。

 

「意識と自己」(原題:The Feeling of What happens, Body and Emotion) は、脳における心の問題、すなわち意識 (Consciousness) や感情(Feeling) 、情動 (Emotion) と身体の関係を先の本よりも深く論じている。脳神経学者が意識の問題に首を突っ込むのは、自分の研究者としての立場には大きな危険であったと述べている。もしやるとすれば、永久雇用資格を取って身分が安全になってからが良い雰囲気だったようだ。彼は「ソフテック・マーカー仮説」を検証するためにはこの「意識」の問題に入っていかざるを得なかったと書いている。

 

本では意識の意味するところ下の図で示している。

  基本的生命調節 ー 情動感情(意識)高い理性

 

人間の行動については次のように説明する。

 覚醒、背景的情動、低いレベルの注意、はいつも継続する。集中的注意、特定の情報、特定の行動、発話は、タイミングを合わせて現れる。


また自己 (Self) については次のように示している。
    原自己(Proto-Self)は無意識的な脳の神経パターン、中核自己(Core Self) は非言語的で一生涯変化しない、自伝的自己 (Autobiographical  Self) は今までに学習した記憶

 

これらを眺めても、漠然としか理解できない。肝要な事は、人間の心が身体としての脳の神経組織の物理的なものの上に展開されていることを示していることである。より明確に要約するために、本の裏と帯に書いてあることを以下に上げておく。

何かを見る、聞く、触るなどによって身体的変化が生じ、情動を誘発する。この身体状態は脳内で神経的に表象され感情の基礎となる。では感情はどのようにして、「私のもの」と認識されるのか。意識はその時どのように立ち上がりどのように働くのか。ソマティックマーカー仮説、情動と感情の理論で有名な神経学者が取り組む「感情の認識」と言う問題。

ダマシオの本は「意識」を中心に論じている。それで、昔読んだ、「意識はいつ生まれるか」を本棚から取り出した。脳の意識を説明する統合情報理論と言うものを提唱しているそうだが、前に読んだ時と同様に、私には理解できない。例にあげるデジタルカメラのセンサーと人間の目との違いが、意識がなせる技と言う当たり前の事しかわからない。ダマシオの意識の説明の方がより理解しやすい。本のカバーには「脳は意識を生み出すがコンピュータは意識を生み出さない」と書いてある。

 

ダマシオも、人間の脳を計算機の中に作り出す事は無理だと書いている。その理由は、人間の感情を計算機上で生み出すことができないとあった。人間の意識あるいは感情は脳の中で生じている事は間違いない。意識や感情は個人によって千差万別である。自分の外で今起きていることを、見たり聞いたりしていることに対する反応は、ある程度の共通性はあるだろうけど、その強弱は異なる。これは、人間は興味のない外部情報にはほとんど反応しないことからもわかる。しかし、脳がいかに高度で複雑であったとしても、それは神経ネットワークと言う物理的構造体である。もし仮に、計算機の記憶容量も含めての能力が人間の脳並みになったと仮定してみよう。現在のスーパーコンピュータの何千台分の、あるいは将来の量子コンピュータの能力で良いかもしれない。


問題は計算機に、人間の目や耳から入る外部からの入力信号に対して、どのように反応するかをいかにして学習させるかである。外部入力なしでも、自分の体に異変に応じて、あるいは前から考えていた未解決の問題をたまたま偶然に思い出して、考えを再開することなどでも良い。人間は生まれてからずっと、この学習を続けている。自伝的記憶 (自己) を更新している。ある1人の人間が生まれてから、例えば30歳になるまでに経験した事実をすべて計算機に入力できるものとしよう。問題はその外部入力をどのように学習して必要になったときの行動の指針となるように計算機に与えるかである。数学法則や物理の原理を教え込むのはできる。実際に数学の定理や式のの変形は、Mathematicaなどで実現されている。人工知能(AI)の囲碁対局ソフトもはプロよりも強いものがある。そこでは学習プログラムが組み込まれている。しかし、それらには意思は関わらない。


人間の良心等の概念を計算機に学習させるのは難しいだろう。しかし、原理的に不可能なことではないだろう。赤ん坊が生まれてきた時からの経験と、その子のDNAが意味することとを、すべて、計算機に入力し、学習アルゴリズムを見つければ良いだろう。かくして、私は、人間の心も計算機上で発生させることができるかもしれないと思っている。ただし。それには、莫大な学習情報の入力機会とそれを学習(処理)するアルゴリズムと高度の情報処理機能が必要である。


話を変えよう。現人類の脳ができたのは、アフリカの1組の夫婦から突然変異の子供たちが生まれたからだと理解している。D. ホロビンは「天才と分裂病の進化論」でそのように書いている。その原題は「The  Madness of Adam & Eve」である。神のタブーを破って、アダムとイブが知恵の実 (りんご) を食べた神話を表している。旧人類の脳の能力を遥かに凌ぐ新人類が誕生したこと、それに伴って新人類の脳には「狂気」が副産物として伴うことになったと主張している。旧人類はネアンデルタール人が有名である。彼らが絶滅したのは、新人類が殺してしまったと言う説と、大型動物などの狩猟競争において、新人類に負けてしまったと言う説がある。

 

NHKのテレビ放送によれば、ネアンデルタール人のDNAの解析が最近成し遂げられたそうだ。それによれば旧人類のDNA1部が新人類に取り込まれている、すなわち、彼らがヨーロッパで混血したそうである。アフリカにずっといた新人類には旧人類のDNAが混じっていないことも証拠の1つである。DNAの混交は多い部分と少ない部分があるそうだ。少ない部分での両者の違いが明らかになっている。DNAを構成する塩基は、アデニン、グアニン、シトシン、チミンの4つである。該当する部分でのDNAの違いは新人類と旧人類で、たった1か所の塩基が入れ替わっていたと言うものだった。この突然変異が、旧人類と新人類の、また、他の動物や地球の運命を決めてしまった。


旧人類は新人類よりも脳の大きさ自体は大きくて、また体力もはるかに優れていたとされている。なのに、この脳の能力の違いによって絶滅させられた。新人類の脳は、言葉による情報伝達を発達させ芸術、科学、技術を進化させた。しかし、その反面、攻撃性や残虐性なども伴っている。岸田秀が、「唯幻論」として主張している「新人類の本能は壊れた」は、このことを示していると解釈できる。韓国の学者から聞いたことがある。新人類の攻撃性などは前頭大脳皮質に基づいている。そこで、この部分の発達を抑えるために、子供の頃から金属の輪を頭にはめる習慣があったと言う。まるで孫悟空の頭の話ではないか。悪さをしないように、三蔵法師に金輪を頭にハメられた。


新人類の残虐性は、今回のウクライナ戦争によって、またもや我々の眼にするところになった。動物では、同じ種であってもなくても、これほど激しく殺し合いをする事は無い。新人類はその脳の能力によって地球にはびこりすぎている。他の動物は大変な迷惑を被っている。人間の脳は狂ってるとしか、他の動物は見ないであろう。

コメント

このブログの人気の投稿

数学論文投稿 (電子情報通信学会 9度目の拒絶と10回目の投稿)

日本数学会への論文投稿(続き)

数学論文投稿(電子情報通信学会 8度目の拒絶と9度目の投稿)