井上ひさし、ベイトソン、シェイクスピア
これらの名前を知っている人でも、私がなぜこの3名を挙げているかはわからないでしょう。実は、井上ひさしの残した随筆のうち、単行本として出ていないのものをまとめた「この世の真実が見えてくる」( 発掘エッセイ・セレクションII 、岩波書店) を、つい最近、買って読んだのが発端である。ベイトソンは2番目の話題「未来を開く現代のコペルニクスたち - ベイトソン、ベネガット、エンデ (「朝日ジャーナル」、1984年8月3日号) に出ていた。私は彼らの本を読んだことがない。井上ひさしがまず紹介しているのが、ベイトソンの「精神と自然」( 思索社、1982年 )である。この本については、会社同期入社の井上くんが言及していたように思ったのと、井上ひさしがずいぶんと楽しく引用しているので、改訂普及版を買って読んだ。
井上ひさしの紹介文を引用するのが手っ取り早い。
グレゴリー・ベイトソンの「精神と自然」(佐藤良明訳) は、不思議な書物である。生物学に始まって、文化人類学、サイバネティックス、情報理論、そして精神医学に至る、いわゆる現代の花形学問についての高度な理論や考察が、ヴィトゲンシュタイン流の箴言文体で (素人目には無造作に) ごろごろ投げ出されている、かと思えば、無邪気で馬鹿にわかりやすい例え話があちこちで鼠花火よろしく勢い良く跳ねている。難解な理屈に閉口し、巻を閉じて書庫へ放り込もうかと思い始めると、それを待ち伏せていたかのように面白い例え話が現れて、こちらをたちまち愉快にさせてくれる。 ( 先が読みたいが、読みたくない。読みたくないが、でもやはり読みたい。これはベイトソンが主唱した二重拘束風 (ダブルバインド) 状況である。例え話の中の1つが懐かしかった。人間社会の変わり具合や、人間を取り巻く生態系の変動を、当の人間が知るのは難しいことを説くのに、ベイトソンは「鍋の中のカエル」の例え話を持ち出すが、これは山形県南部の子供たちが、昔、熱中した実験でもあった。
<<・・・水を入れた鍋の中にをカエルをそっと座らせておき、今こそ跳び出す時だと悟られぬように、極めてゆっくりかつスムーズに温度を上げていくと、カエルは結局跳び出さずにゆで上がってしまうという疑似科学的な作り話があるが、我々人類も、そんな鍋の中に置かれていて、徐々にその進行する公害で環境を汚染し、徐々に堕落していく宗教と教育で精神を腐らせつつあるのだろうか? >>。
筆者たちのカエルは鍋の中で最初から逃げ腰で、おかげで実験には1度も成功することができなかったけれど、ベイトソンのこの書物には、この手の子供っぽいことが実にしばしば現れる。難しい考察とこの子供らしさの同居、それがこの書物の怪しい魅力になっている。余談になるが、これは連続性 (アナログ)と跳び跳び性 ( ディジタル)との違いを知るにはとても良い実験だったかもしれない。水の温度は連続性 (アナログ)でのみ上がるが、一方、ゆであげられたカエルがこときれて生から死へ移る時は、跳び跳び性 (ディジタル) が現れると言うわけである。
ところでベイトソンを有名にしている二重拘束理論にも、難解さとやさしさとが同居している。ラッセルのタイプ理論をもとに築き上げられたベイトソンの理論はお世辞にも「よくわかる」とは言いかねるが、しかし次のような例えで語られると、実によくわかる。子供が母親に「外で遊んできてもいい?」と許可を求める。母親は子供を外へ出したくない理由はあるが、言葉の上では、「いいわよ。楽しくやってらっしゃい」と答える。その時の母親の表情は、その言葉とは裏腹に眉の間に深い皺を刻んでいる。そこで子供は迷う。言葉では許可されている。だが、表情では禁止されている。母親への依存心が強いほど子供は途方にくれるが、このような逆説的命令を二重拘束と言うのである、と。
ここに出たゆでカエルの実験を子供の時に行った井上ひさしが、ベイトソンの議論を読んで嬉しくなったのはよくわかる。私は、このゆでカエルの話が外国でも知られているとは思っていなかった。カエルではなく貝をゆでる実験は、私が老年になって田舎の親類に教わった。これは最後に書くことにする。
井上ひさしは、ベイトソンの連続性と跳び跳び性についての議論を正確に理解している。ここで言うアナログとディジタルについては、通信工学での概念を超えており、広く論理展開を行う際に多くの人々が認識することを忘れれている。ベイトソンによれば論理の階梯を無視していることが多いと言うことになる。
井上ひさしはベネガットとエンデが言うことについても要点を簡明に記している。最後のところにあるように、ベイトソンも含めてこれら3人は同じことを言っているとまとめる。すなわち、我ら人類がこの先に生きていくためには、物事を全体的に見て、かつ未来から現代を振り返って考え、本質を見失わないようにしなければならないと言う。
「精神と自然」を読んでみての私の感想を述べたい。いろいろな話題が脈絡なく飛んで、しかも説明が理解できないところがたくさんある。もう少しわかりやすく説明できないものか。筆者の考えが固まっていないのではないか。私も何度か読むのはやめようかと思った。最後まで読んでみて井上ひさしの言い分がよくわかった。
第二章「誰もが学校で習うこと」は世間一般や学校 (大学も) で習うことが、断片的であり、物事のつながりを考えた説明がなされていないと非難している。例えば、文法で名詞とは、動詞とは何かを個別に取り出して議論する事は意味がない。これらは全てお互いの関連性で捉えるべきだと主張している。「数」と「量」、ある猫と猫一般
(抽象名詞) 、生物の器官のつながりや進化などもそのように捉えるべきだと言う。
私が特に印象を受けたところは、鏡に映る自分の姿について論じているところである。自分が右手を上げると鏡の中の自分は左手を上げるのはなぜかだ。私も若い頃からこれに興味を持っていた。その後、朝永振一郎の「鏡の中の世界」を読んで、彼が属していた当時の理化学研究所で、そうそうたる研究者が、この問題について議論したとあったので、嬉しくなったものだ。
本の題目が「精神と自然」となったわけを私なりに考えてみたい。ここで、「精神」(Mind)と言う単語については、心理学で使われる「意識」とは違う意味を持たせているようである。脳神経学者A.ダマシオの本「意識と自己」は人間に特化して、物体としての身体と、意識との関係を論じている。「精神と自然」はこれを拡張して、身体を含んだ「自然現象」と「自然現象」の関連を表す、論理・形式・情報などをまとめて「精神」と呼んでいるように思える。そして、前者が「意識(心)」と「身体」は切り離して考えてはならないと言うのに対して、後者も「精神」と「自然」も結びついたものとして理解すべきだと同じように主張していると私は思う。ベイトソンが例に挙げた、森の中にいる時の心地良さは、「意識(心)」が「自然」につながっていることをわかりやすく示している。
井上ひさしが紹介しているように、ベイトソンは多岐にわたる分野を研究している。その結果、どのような分野の本質も、物事の関係性
(情報)で表されると結論付けているように思われる。ベイトソンが大学での職についたのは70歳になってからのようである。彼が専門家からどのような評価を受けたのかは知らない。専門分野がかくも散らばっているので、各々の分野ではたいした評価を受けていないかもしれない。井上ひさしが言うように、学問の世界の隠遁者の雰囲気がするので異端児の扱いを受けたかもしれない。
話を井上ひさしに戻そう。彼は小説家・劇作家・劇団の主宰・評論家などの顔を持った。彼の興味の広さと本質をつかもうとする姿勢は、日本人として特筆すべきものである。例えば医学が大好きであり、家には医学大辞典ひと揃えがあった。「千葉県でこれを購入したのは千葉大学と僕だけだ」と話していたそうだ。医学書で学んだことが、彼のあちこちの作品に登場しているようだ。彼の研究熱心さについては、古本屋で外交文書を見つけ出して高い金を出して購入したいきさつを書いていたことを思い出す。太平洋戦争末期になって、いかにして終戦に持ち込むかを、政府首脳(広田弘毅など)が相談して、ソ連に仲介を頼むことにした。そこで箱根で秘密裏にソ連大使と会った様子が描かれていた。その時、スターリンとルーズベルトは密約を交わしており、これを知らない日本政府は良いようにあしらわれていたことを紹介している。
ところで、このブログにシェイクスピアが登場するのはなぜか。単純なことだ。私が1昨日、映画「ベニスの商人」を録画したDVDを観たからだ。井上ひさしは、作家としてのシェイクスピアを意識したのは当然であろう。彼が脚本を書いた戯曲「天保12年のシェイクスピア」でも分かる。これはシェイクスピアの戯曲の大半をパロディー化して日本の任侠伝に取り入れたものである。昔、藤原竜也に熱を入れていた我が娘が東京に劇を見に行き、その時買ってきたDVD (蜷川幸雄演出)で見たことがある。
たまっていたDVDを処分しようとして、「ベニスの商人」を見つけた。これは曰く付きのDVDである。だいぶ前のことだ。電器店デオデオ (当時)で購入した録画装置が保証期間が切れる寸前に故障したので修理を頼んだ。この時メーカーの日立製作所は、録画装置から撤退していた。それで新品のパナソニックの録画装置に交換してくれた。修理に来た時、カミさんが言った。「私が大事に録画してある番組はどうしてくれるのよ」。結局のところ、録画したものをハードディスクから全て取り出して、DVDに焼いて持参してくれた。50枚位はあった。日立はえらい目にあった。
パイオニアのブルーレイプレーヤーで見ると昔 (2004年、wowow)録画したのが極めて高画質で見れた(最近の画像処理技術のおかげ)。ストーリーは大体知っているし、字幕付きなので英語の音声もかなり聞き取れた。シェイクスピア時代の人称名詞の違いも1カ所でわかった。 2時間以上はあるので、DVD 2枚に収めてある。2枚目からは、TVの音声を光デジタルケーブルで自慢の音響装置につないで鳴らす。ベニスの美しい光景と一緒に、迫力満点で楽しめた。
アル・パチーノが出ているらしいことを途中で知った。どれが彼の役かすぐにはわからなかった。ユダヤ人の金貸し (シャイロック) がそうであった。年がだいぶいっていたので気がつきにくい。調べてみると彼が「ゴッドファーザー」に出てから、30年近く位の後である。それで、年齢的にも納得した。ユダヤ人シャイロックがキリスト教徒にこれまで侮辱・差別されてきたことに対して、タンカを切るシーンが2度ほどある。そのセリフ回しが、シェイクスピアのダジャレ言葉であり、井上ひさしはこれを受け継いでいる。彼が娘に語ったとされる文章を思い出す。「父さんはシェイクスピアを超えたと思う」。シェイクスピアは人間の機微を描き出すことにたけている。井上ひさしは時代が後なので、人間だけではなくすべての分野での興味と探究心を発揮している。この点では、シェイクスピアを超えているだろう。
最後に、ゆでカエルに代わる話を書く。五島の地元で、ヒノンド (正式名:シリタカ貝) と呼ぶ海の貝がある。かなり大きなものであり、砂が入っていないので尻尾の先まで食べられる。茹でると身が巻貝殻の奥深く潜りこむので、サザエに比べて、身を取り出すのが難しいのが問題となる。鍋の塩水につけて、ゆっくりと水温を上げる。貝は潮が引いて海水温が上がったと感じて、深いところへ移動するために身を外に出す。頃合いを見て一気に火力を上げて、身が引っ込む前にゆであげる。
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