投稿

近刊本、「株式会社の世界史」と「国家・企業・通貨」を読んで

これらの本の著者は、それぞれ、平川克己と岩村充である。どちらも私はこれまで知らなかった。週刊東洋経済5/1-8合併特大号の特集「未来を知るための読書案内」で紹介されていた。前者は内田樹が推薦している。ちなみに内田樹が推薦した5冊の本は全て私と興味が一致している。彼は、「日本辺境論」を書いたとき、岸田秀の論を元にしたと述べている。この点でも波長が合う。後者は、経済学者や市場関係者が選んだ経済・経営書ランキング36冊の1つである。  「株式会社の世界史」の帯には、「コロナ禍による大恐慌は株式会社の終焉を招くのか、グローバリズムの終焉は戦争をもたらすのか、東インド会社を起源とする500年の歴史から資本主義と国家と株式会社の未来を探る」とある。まずは、株式会社が始まってからの500年の歴史が紹介される。株式会社が抱える問題に対して、彼は、「病」という言葉を使う。「パワーの秘密」と「病の源泉」と対比して表現する。病の症状として、環境破壊、極端な給与格差、非正規労働の恒常化、不正な取引、詐欺まがいのビジネスモデルを上げる。その病状に気づかずに、そこから抜け出せない理由を次のように説明する。人間というものは、自らが作り、支配しているはずの共同体(会社)に影響され、依存し、その共同体(会社)の目的やその存続論理によって、逆に支配される不思議な倒錯関係(共同幻想)に陥っているというものだ。 この病から抜け出すためには、金 (儲け) だけへの執着を断ち、他人と自分の心を大事にすることだと結論づけているかと私は思う。ただし、株式会社にこれを求めるものは無理だと言う。結局のところは、株式会社同士の争いであり、国家を利用した武力闘争になるのではないかと言う悲観的な見方で終わる。  「国家・企業・通貨」の問題意識は、本文中にある次の文章で表されている。「競争の海に落ちる国家、人々の心に入り込む企業、漂い始めた通貨、それらへの不安が世界を覆い始めています」。これを起こしているのはグローバリズムであるとする。この中で、通貨がなぜそれほど問題となるのかは私にはわからない。中央銀行の通貨政策が、政府の方針に従って、大企業や富裕層向けに偏りがあると言うものであろうか。著者はグローバリズムの進行を拒否できないとする。もしそうすると、さらに大きな危機につながりかねないと言う理屈をつけている。その上で、ポピ

交通違反をしての認知機能検査

  免許更新時の年齢が 75 歳以上の者は、更新時の高齢者講習に加えて、認知機能検査を受けなくてはならない。私はこれまでの免許更新のタイミングが良かったのか、来年 (2022) の誕生日 (77 歳 ) 前の更新時に受ければ良いはずだった。しかし、一旦停止違反で警察に捕まり公安委員会より臨時認知機能検査通知が届いていた。これは 先のブログ に書いた。 私が所属するテニスクラブには、同年の方が何名かいる。その中には県警に勤めていた男もいる。先の日曜日に行われた、テニスクラブの部内親善大会で、私はその男に交通違反して、認知機能検査に呼び出されたことを話し、どのような検査をするのか聞いた。傍にはもう 1 人の同年齢の男がおり、彼ら 2 人が体験談を語ってくれた。 1 番難しい問題は、 4 つの絵 ( イラスト ) が 1 枚のスライドに描かれているのを、合計 4 枚、短時間で見せられる。合計 16 個の絵が何であったかを後で思い出して言葉で書かせる問題である。彼らは、事前に調べて十分に練習して受けたそうだ。警察官でない方は 100 点満点を取ったそうだ。私は今日の日付も覚えていないことが多い ( 実際にそのような問題も出て慌てた ) ので、大いに不安に思った。本やネットにも出ていると言うので、彼らのように事前に準備しようと考えていたのに、ズボラなためにこれを怠り、また、練習しないのが本当の自分の認知力の検査になると言い訳を作って、本番に臨んだ。   免許更新時における検査であれば、近くの自動車教習所で受けることができる。しかし、私の場合は交通違反なので、臨時検査であり、福岡市の奥にある運転試験場まで出向いていかなければならない。自宅から電車で 35 分、それからバスに乗って 40 分はかかる。この運転試験場は私には因縁がある。大学の夏休みに免許試験を受けて、 2 回目に実技試験でわずか 2 点足りなくて落ちたことがあった ( 当時も自動車学校はあったが、授業料が高いので、私は貸しコース車で自分で練習した。結局は、その後 3 度目の試験 ( 長崎県大村の運転試験場 ) で受かった ) 。 係官の言葉遣いは、例によって不自然に丁寧である。ただし、検査を受ける我々全員 (15 名 ) が交通違反したものであるので、そ

昨夜の怖い夢とその解釈

九大の電気系教務室とおぼしき部屋へ入って行った。気にかかることがあるので確かめに来たのである。単位の取得状況のことだ。数名の係員がいた。皆、あまりやる気がないように見え、そのうちの 1 人は机にうつぶせして寝ていた。私は自分がまだ取得していない教科目の単位があるようなので確認してくれと頼んだ。少しして紙に書き出してくれた。驚くべきことに 10 科目くらいも落としている。 1 番上にあるのは息子の指導教官の講義科目である。その他は、はっきりしなかった。私は「これはすべて必修科目か」と問う。係員が「そうだ」と答える。こんな状況になるまでなぜ知らせてくれなかったかと相手に詰め寄る。九工大では、単位取得がおもわしくない生徒にはその旨、学科長が手紙を出して注意を促していたと言って制度のまずさをなじる。また、すべて必修科目にするのはおかしいのではないかとも言った。九工大では必修、選択必修 ( 指定された科目からいくつか選ぶ ) と選択科目が用意されたていたと、さらに付け加えた。 そうこうしているうちに、主任と思える若い元気な男が部屋に帰ってきた。その男に向かって言った。「私が単位をこんなに落としていたのに、今、教授として働いている。この事実がわかったので私は仕事を辞めなければならなくなると思う」。彼は答える。「今度の教授会にかけられて、赤岩先生は辞めさせられることになるでしょう」。ここで夢が覚めた。 この夢の解釈を自分なりにしてみたい。単位を落としたままにしておいて、卒業が近くになって慌てている夢をこれまで何度も見た。たいてい、何かに行き詰まっている時期に多い。最近、問題となっているのは、数学の論文である。これのいきさつについては、ブログに何回か書いた。電子情報通信学会に出して拒絶された論文を 書き直した原稿 を、以前から指導していただいていた九大数学科の先生に送って意見を求めた。前と同様にボロクソの見解である。その意見に 反論 したところまで書いてある。その後、私が九大で教えていた頃にいちどお会いしたことがある、工学部の学生にフーリエ変換などの講義を行っていた、応用理学の所属で数学の専門家 Y 先生 ( 退職後は久留米大付設高校の校長を務められた。私より 1 つ上か ) に、運良く連絡がつき、親切にメールで論文の指導を

岸田 秀

  この人の本は昔から愛読してきた。 ( 彼が翻訳した心理学の本「アイヒマン実験」が最初ではあるが、翻訳者には注意する事はなかった ) 。青土社から出た「ものぐさ精神分析」から始まって、その後の著作はほとんど読んだと思っている。今度読んだのは、「唯幻論始末記」である。帯には「私にとってこれが人生最後の本になるだろう ( 書き下ろし ) 、<母の愛>に苦しめられた自らの人生とともに振り返る唯幻論の一部始終」とある。 2019 年に出ているので、私は 2 年ほど気づかなかったことになる。最後だと銘打ってあるから買わないわけにはいかない。 今回の本では著者の私的なことを、特に母親のことが詳しく書き加えられている。大学時代に発症した神経症と向き合い、自分で精神分析し始めてから、彼独自と思われる考え方に到達した。それが唯幻論である。一言にまとめると、人間は本能が壊れた動物であり、本能に代わる行動指針 ( 自我 ) を脳の中に、生まれたから後、作らざるをえない。そして、その自我は普遍的なものではなく、自分が人工的に作り上げた幻想でしかないと主張する。本能ではないので、自我という幻想に基づいて行動する際に、うまくいかない事態が度々起こると言う説である。マルクス主義の唯物論に対抗して、唯幻論としたものと思われる。その文章の明晰さは、思想の確かさとそれを表現する能力の高さに基づいていると思われる。 彼の論考を受け入れないで、困惑したり怒ってしまう人が多かったのは、事実であろう。この本ではそのような事例をいくつか紹介している。 1 つは自分の母親 ( 彼の実の母は母の妹である ) をそんなにひどく責めるのは良くないと言う意見である。また、神を信じないでこれも妄想であると言うのは許せないとするものもある。さらに、彼のこの精神分析論は、国家に応用はできないと反対する者もいる。これらの事は対談において、直接に彼に問いかけられたことががある。いずれについても、著者はきっぱりと自説を主張し妥協することがない。 彼は母親が自分を世間的には可愛がるふりをして、実は利用していたと非難する。彼は母の期待に応えようとするとするものの、自分が抑圧した考え ( 母親は本当は自分を愛していない ) に振り回され、普通の行動ができなくなる神経症状に悩まさ

14歳からの哲学入門

  この本の帯には、 14 歳の頃に訪れる「常識の崩壊」、それを乗り越えるとき、哲学が始まると書いてある。著者はペンネームで「飲茶」とある。ニーチェ、デカルト、ヒューム、カント、ヘーゲル、キルケゴール、サルトル、レヴィス = トロース、ウイトケンシュタイン、デリダ、ボードリヤールが登場する。ここではこの本に書かれている事の紹介と、私の思い出す読書体験等を交えて書くことにしよう。   まず、なぜ 14 歳なのか。著者は最近流行っている 14 歳と冠した幾つかの本に言及する。 14 歳とは中学 2 年生である。この頃には、小学校時代までに教え込まれてきた物事の常識的な考え方に、疑問を呈し始めるからだと言う。この頃に起きる常識の崩壊に対する反応は、「妥協する」、「反抗する」、そして、「哲学する」の 3 つであるとする。先の 2 つはすぐにわかる。ここで、哲学とは、「古い常識を疑って、今までにないものの見方を発見し、新しい価値観、世界観を創造する学問」と言う。なるほどこれで良いだろう。若い時に私がある人に哲学とは何かと問われ、「人間が宗教に頼らずに生きていくためのものである」と答えたことは、ブログ「 私の英語体験 」に書いた。また大人の常識を疑って成功した 子供の時の私の体験 は別のブログに書いた。   合理主義 ニーチェから始まる (1844 − 1900) 。デカルト (1596 − 1650) ではない。そのわけは、哲学とは何かを説明し始めるのに都合が良いからだろう。彼の言葉「神は死んだ」が当時のキリスト教ヨーロッパ諸国の人々の常識に与えた影響の大きさは直ちにわかる。神がいないとしたら、人々はどのような基準で生きていくのかがわからず途方に暮れる。この言い回しは現代でもよく使われる。例えば「 PDC is dead 」などと使われる。私が関わった第二世代 ( デジタル第一世代 ) の携帯電話方式、 PDC (Personal Digital Cellular) が終わったことを意味する。この言い回しは、 R. ドーキンスの本「神は妄想である : God is delusion 」の題目にも影響していると思う。ニーチェの哲学は虚無主義 ( ニヒリズム ) と呼ばれる。ニ

警察からの呼び出し

  ゴルフの練習から帰ってきたら、カミさんが大変なことが起こっていると言う。何事かと聞き返すと、警察から配達証明郵便が届いたと答える。警察の運転試験場に出頭して、検査を受けるようにと書いてある。 1 ヵ月以内に受けないと免許を取り消すとの脅し文句もある。その理由として 4 月 8 日に交通違反をしたためとある。確かに 1 週間ほど前に、一時停止違反で切符を切られた。 7000 円のお金はすぐに振り込んだので終わったと思っていた。 本屋に注文していた本が届いたので取りに行って、帰る途中である。いつも通るところで、見通しも良いところだ。丁字路から出るところで、警察の車が見えた。その後にも車が見えたので何かあったのだろうと思っただけで、左折したところで、スピーカーで停まるように告げられた。ブレーキは踏んで速度を落としたようだが、完全には止まらなかったと言われた。私は止まったと思ったけどと言うけど通じない。そういえば、 1 ヵ月ぐらい前にゴルフで一緒に回った男が、ここで一旦停止違反で警察に捕まったと聞いていた。彼は止まったと言い張り証拠を見せろと迫って、 30 分ぐらいして粘ったら相手が諦めたと武勇伝を語っていた。私も少しは粘ろうかと思い、警察官の胸にカメラみたいなのがあったので、それで記録してあるのだろうから再生して見せてくれと頼んだ。しかしそれは単なる懐中電灯だと言われた。確認すると確かに一旦停止標識があった。これを見落とすとともに左右がよく見えるので、几帳面に止まる車は少ないようだ。それは駅前のロータリーに接する横断歩道でもよくある。前方は大きく開けているので、人の確認は充分できる。そのため、うっかり停車するのを忘れてしまう。私の知り合いでそこで捕まったのが 3 人いる。私は、ここでは、前方とともに真横を見て警察の車がいないか確認する癖が付いている。 見通しが悪いところでは、誰でも注意して止まるだろう。ただし、そのような場所は大抵見張っていない。家の近くでは、左折するときに信号機のある交差点の手前で、近道になるような道路が切ってあるところがある。このようなところには一旦停止標識は無いのが普通である。見通しが良いので注意して合流すれば良いからだ。そこでも、遠くから監視しており捕まる車が多い。警察は事故が起きやすいところで

数学論文 数学者からのコメントと私の反論

  先のブログ に書きました電子情報通信学会への 再投稿論文の原稿 を、九大数学科の先生方が読んでくれました。 非常に厳しい評価 です。私は、納得できないので 反論をまとめた ところです。興味がある方は読んでください。いづれにせよ、専門家と真剣に議論できて嬉しい限りです。