岸田 秀

 

この人の本は昔から愛読してきた。(彼が翻訳した心理学の本「アイヒマン実験」が最初ではあるが、翻訳者には注意する事はなかった)。青土社から出た「ものぐさ精神分析」から始まって、その後の著作はほとんど読んだと思っている。今度読んだのは、「唯幻論始末記」である。帯には「私にとってこれが人生最後の本になるだろう(書き下ろし)、<母の愛>に苦しめられた自らの人生とともに振り返る唯幻論の一部始終」とある。2019年に出ているので、私は2年ほど気づかなかったことになる。最後だと銘打ってあるから買わないわけにはいかない。


今回の本では著者の私的なことを、特に母親のことが詳しく書き加えられている。大学時代に発症した神経症と向き合い、自分で精神分析し始めてから、彼独自と思われる考え方に到達した。それが唯幻論である。一言にまとめると、人間は本能が壊れた動物であり、本能に代わる行動指針(自我)を脳の中に、生まれたから後、作らざるをえない。そして、その自我は普遍的なものではなく、自分が人工的に作り上げた幻想でしかないと主張する。本能ではないので、自我という幻想に基づいて行動する際に、うまくいかない事態が度々起こると言う説である。マルクス主義の唯物論に対抗して、唯幻論としたものと思われる。その文章の明晰さは、思想の確かさとそれを表現する能力の高さに基づいていると思われる。


彼の論考を受け入れないで、困惑したり怒ってしまう人が多かったのは、事実であろう。この本ではそのような事例をいくつか紹介している。1つは自分の母親 (彼の実の母は母の妹である) をそんなにひどく責めるのは良くないと言う意見である。また、神を信じないでこれも妄想であると言うのは許せないとするものもある。さらに、彼のこの精神分析論は、国家に応用はできないと反対する者もいる。これらの事は対談において、直接に彼に問いかけられたことががある。いずれについても、著者はきっぱりと自説を主張し妥協することがない。


彼は母親が自分を世間的には可愛がるふりをして、実は利用していたと非難する。彼は母の期待に応えようとするとするものの、自分が抑圧した考え (母親は本当は自分を愛していない) に振り回され、普通の行動ができなくなる神経症状に悩まされた。結局、母が自分を本当には愛してくれていなかったことに気づき、その神経症状はおさまったようだ。


宗教については、一神教、特にキリスト教に厳しい考え方をする。そもそも唯幻論であるから宗教を信じていない。これは、R.ドーキンスの本「神は妄想である」と同じ位の強い信念である。キリスト教の成立過程で、もともとの母体であるユダヤ教の持つ問題に加えて、さらに、ローマ帝国への対応過程において好ましからざる行動をとったのが、キリスト教がその後抱える問題の発端となっていると主張する。ユダヤ教はローマ帝国の支配に対して、何回も戦った。それに対して、キリスト教はローマ帝国へ妥協してユダヤ教を踏み台にした。それがその後のキリスト教の抑圧された重荷になったと指摘する。


アメリカの対外的行動における問題も、精神分析における抑圧した心理構造から説明する。世界の警察官として外国への干渉の仕方に問題があるとする。ピルグリムファーザーズはアメリカの自由と民主主義の思想の始祖とされ、聖徒と呼ばれている。しかし、事実は異なる。上陸した聖徒たちは、インディアンの墓地を荒らし、埋めてあった穀物を盗み、さらに聖徒の代表の1人、スタンディッシュは、インディアンの酋長と彼の弟で18歳の若者、その他のもう2人の戦士を自分の執務室に招待して食事をすることにした。インディアンは来訪者を丁寧に迎える習慣があったので招待されても危険があるとは考えなかった。ところが彼らが部屋に入った途端、ドアに鍵がかけられた。スタンディッシュは、自らナイフで1人のインディアン戦士をズタズタに切り刻んだ。彼の部下は酋長ともう1人の戦士を刀でめった切りにした。スタンディッシュはインディアンの酋長の首を持って、意気揚々とプリマスに帰還した。人々は歓喜して彼を迎えた。彼はその首を植民地の防塞の杭の先端に釘で打ちつけた。その首は長年の間プリマス名物の1つとして残った (O.デマリス、「暴力の国アメリカ」、猿谷要「新大陸に生きる」における引用)

 

問題はこのような暴虐を行ったことが、自由と民主主義の表れであることとすり替えられていったことである。その後は、インディアンに対して脅迫神経症的反復となった。また、外国の非民主的な独裁政権に反対して、アメリカの自由と民主主義を守ると言う形をとる。そして一発目は相手側から打たせて、アメリカはそれに反撃するためにやむを得ず立ち上がったことになっていると説明している。「アラモ砦」の戦い、ハワイを米国領にしたいきさつ、日米開戦などの例もあげる。


岸田秀の唯幻論は、近年の哲学が行き着いた先を予言しているようにも見える。人間の考える事は、所詮幻想であると言う立場は無敵に思える。誰しも、過去の不都合な経験を正当に解釈して反省する事は困難である。だから、ごまかしの理屈をつけたがる。しかしいずれ、それが災いになって吹き出す。人間の脳は高性能になったものの、その脳に、動物の本能に代わる正当な行動基準 (プログラム)を書き込む事は至難の業だろう。


私は、岸田秀を日本が生んだ偉大な思想家と考えている。人間のちまちました行いを、このように理路整然と説明する理論を私は知らない (彼の思考は「唯幻論大全」飛鳥新社2013年にまとめられている)


この本では、彼が大学院博士学生を指導できなかった理由が明らかにされる。彼の博士論文が拒絶されて博士の学位を持っていないからだ。しかし、博士の学位がどうしたというのだ。彼の業績はそんな事はどうでも良い位高い。あんなに非難していた育ての母のことを同情的に書いてある。貧しい農家から、劇場や映画館を経営する家に嫁いできたことで、大きな引け目と考えの思い込みがあったとし、また、その夫が坊ちゃま的で甲斐性がなかったからだとして、理解する言葉を書いている。いずれにせよ著者は先が短いことを感じて、最後の著作にこのことを書いたのだろう。

 

私のブログも終活の脳内遺品整理のつもりである。

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