14歳からの哲学入門

 

この本の帯には、14歳の頃に訪れる「常識の崩壊」、それを乗り越えるとき、哲学が始まると書いてある。著者はペンネームで「飲茶」とある。ニーチェ、デカルト、ヒューム、カント、ヘーゲル、キルケゴール、サルトル、レヴィス=トロース、ウイトケンシュタイン、デリダ、ボードリヤールが登場する。ここではこの本に書かれている事の紹介と、私の思い出す読書体験等を交えて書くことにしよう。

 

まず、なぜ14歳なのか。著者は最近流行っている14歳と冠した幾つかの本に言及する。14歳とは中学2年生である。この頃には、小学校時代までに教え込まれてきた物事の常識的な考え方に、疑問を呈し始めるからだと言う。この頃に起きる常識の崩壊に対する反応は、「妥協する」、「反抗する」、そして、「哲学する」の3つであるとする。先の2つはすぐにわかる。ここで、哲学とは、「古い常識を疑って、今までにないものの見方を発見し、新しい価値観、世界観を創造する学問」と言う。なるほどこれで良いだろう。若い時に私がある人に哲学とは何かと問われ、「人間が宗教に頼らずに生きていくためのものである」と答えたことは、ブログ「私の英語体験」に書いた。また大人の常識を疑って成功した子供の時の私の体験は別のブログに書いた。

 

合理主義

ニーチェから始まる(1844 1900)。デカルト(1596 1650)ではない。そのわけは、哲学とは何かを説明し始めるのに都合が良いからだろう。彼の言葉「神は死んだ」が当時のキリスト教ヨーロッパ諸国の人々の常識に与えた影響の大きさは直ちにわかる。神がいないとしたら、人々はどのような基準で生きていくのかがわからず途方に暮れる。この言い回しは現代でもよく使われる。例えば「PDC is dead」などと使われる。私が関わった第二世代(デジタル第一世代)の携帯電話方式、PDC (Personal Digital Cellular)が終わったことを意味する。この言い回しは、R.ドーキンスの本「神は妄想である: God is delusion」の題目にも影響していると思う。ニーチェの哲学は虚無主義 (ニヒリズム)と呼ばれる。ニヒルはラテン語から来ており、英語ではNone Nullの語源である。私は大学時代に、「ツアラストラはかく語りき」、「人間的なあまりにも人間的な」を読んだことがある。九大教養部の軟式テニスクラブの部室で、私が持っていた本を見て、感じの良い年上の女性が私に、「赤岩君はがニーチェ好きなのね」と言われた事は今でもよく憶えている。

 

この本の著者(飲茶)は、ニーチェの虚無思想からの帰結として、苦しみが無限に続く(神は死んだから当然)永劫回帰と言う考え方につながると説く。そこを解決するために「超人」思想が出てくる。苦しみを積極的に認めこれと共に生き続けることを決意する。著者はふれてはいないものの、永劫回帰と言う概念はニーチェが仏教の思想から取り入れたようだ(西洋思想はインドの思想より遅れているとニーチェは言った:ウィキペディアより)。神が死んだことによるこのような西洋人の苦しみは、私の考えでは、カミュの書いた「シジフォスの神話」によく表現されている。著者はニーチェがショーペンハウエルに大きな影響を受けたことを指摘していない。ここでは哲学とは何かだけを言いたかったのだろう。

 

次はデカルトに移る。そこでの冒頭で、哲学の流れを次のように示す。

 

合理主義--実存主義--構造主義--ポスト構造主義

 

「われ思う、故に我あり」を基にした神の存在証明を紹介する。著者はこの証明を神の代わりに無限の問題として話をする。神 = 全知全能 = とおく。そこで、R. ペンローズの考えが紹介される。有限の規模 (回路)で作られる計算機 (チューリングマシン) は無限の問題を扱えない。しかし、人間は無限を直感的にとらえることができる。そこで人間の脳は何か特別な世界 (量子力学的現象) によって思考が成立していると言う仮説を紹介する。最後はデカルトの提出した問 (根本的な)こそ優れているとして哲学の大事さを説明する。私は「方法序説」を読んだことを覚えている。しかし、その思想に感銘は受けなかったようだ。

 

経験主義

ヒュームはデカルトの合理主義 (演繹法)に対して、経験論 (帰納法)で反論する。極論すれば、我々は経験,すなわち外部情報入力で全てが決まる機械だとする。これにより、「神」もデカルトの「我」も粉砕される。私は教養部でヒュームの哲学についての講義を受けたことがある。冴えない講義で、年老いた教授がノートを読み上げるだけだった。「悟性」と言う単語がいっぱい出てきたことしか思い出せない。もう一つの哲学講座(実存主義)を受ける受けるべきだったと後悔したことを思い出す。

 

合理主義の復活

次はカントである。ヒュームの経験論はこれまでの合理主義の全てを否定してしまった。これに対して「人それぞれの経験によらない正しさ」を証明し、合理主義を復活させたのがカントであるそうだ。カントの思想は世界を経験可能な形式 (時間と空間) に変換する「人類共通」の装置 (精神) , 例えば、幾何学の公式などの合理的な法則性を通して、経験によって理論に到達する経路と、この経路を通らずに演繹的に理論に到達する2つの経路があると、著者は図を用いて説明する。人間が感知する前の知ることができない世界は、「モノ自体」と呼んだそうだ。これにより、合理論と経験論の矛盾を解決したようだ。私はカントの本を文庫本で買ったことがある。ただし、途中で諦めてしまったようだ。著者の説明を読んで分かった気がしてうれしい。

 

カントの理論はよく考えてみると盤石ではない。「モノ自体」は人間は知ることができない。なぜなら、自分の変換装置によって、歪められたものだけを知ることになるからである。さらに、人間の思考形式の限界を超えた問題、例えば、「宇宙の起源」、「自由」、「神さま」などの問題について答えを出せる見込みは無い。こうなると、人間の考える能力について悲観的にならざるを得ない。

 

こうした人間限界論を吹き飛ばしたのが、楽天的哲学者ヘーゲルである。彼は人間の知り得ない世界は、知る必要がないとして、世界とは人間が思い込んだものとしてしまう。これにより、カントの哲学が抱える問題を解決する。すなわち、私 (人間の精神) = 社会とする。ただし、そこで止まる事はなく、人間の精神は弁証法的に成長していくので、究極には私 = 世界 = 神に到達するとしてしまう。これは合理主義のやり過ぎである。

 

実存主義

完成したかのような合理主義の哲学を根本から覆す新しい哲学として、実存主義が紹介される。実存とは、現実存在の短縮形である。著者は、前時代の哲学が「本質存在についてばかり考えすぎていたので、これを止めにして、その反対の現実存在にもっと目を向け考えていこうではないか」と、実存主義は主張するものだと説明する。

 

このようなアプローチを最初に撮ったのがキルケゴールである。私は大学のときに彼の「死に至る病」を買って読んだことがある。当時は実存主義の全盛時代だった。私は偶然にカミュの「異邦人」を読んで興味を持ったことをから実存主義に入っていった。高校からの友人に紹介したら、彼も、カミュそしてサルトルにはまった。キルケゴールは物事を否定的に捉える悲観論者である。ヘーゲルとは正反対である。( このような展開はヘーゲルの言う弁証法そのものに従っていることになる)。キルケゴールの悲観的な物の見方は、父親(56歳の時の子供) からの厳しい形式的なしつけに由来しているそうだ。私がこの本を読んで最も印象に残ったのは、キルケゴールの生い立ちと死までの私的部分の記述である。キルケゴールは父親の教育のせいで、今で言う「適応障害」に近い性格のようだ。しかし、心は純粋であり、かつ本質問題を自分の頭で考え抜く気力があった。レギーネと言う女性と婚約したものの、自分がいつも考え事ばかりしていては彼女を幸福にできないと考え、婚約を破棄する。彼女はその後幸せな結婚をした。そこまでしたものの、キルケゴールの自費出版した哲学書はそこそこの評判しか得られなかった。それでも、馬鹿にされても孤独でも彼の哲学を進めて、売れない哲学書を書き続けた。名声を得たヘーゲルとは対照的である。それでも、キルケゴールは死に行くときには認められたそうだ。彼の葬式に彼の著書を読んだ若い人たちがたくさん駆けつけた。また、かつての婚約者レギーネは、キルケゴールが遺言書で書いた財産の受け取りは拒絶したものの、彼の遺稿を引き継いで出版した。

 

実存主義哲学者としては、サルトルの名が上がる。彼の哲学を要約して、「存在する現実のすべてのものは本質に先立って存在する」、言い換えれば「目的」や「意味」などの本質はどうでも良いと言う考え方である。私は彼の小説「嘔吐」と「存在と無」、「想像力の問題」を買って読んだことを覚えている。小説のほうは、まあまあの感銘だった。ただし、その思想にはどうも馴染めなかった。サルトルが途中から唱えたアンガージュマン(Engagement: 関わる)にはどうにもついていけなかった。目的や意味がないのだから、自分で作り出すと言う事のようだが。当時の学生は世界的にこの思想に共鳴して、フランスなどでは、パリの5月革命など大きな社会運動にまでなった。

 

私としては実存主義哲学者として、カミュの方が好きであった。この本の著者が彼を取り上げていないのは不満である。カミュの小説「異邦人」はサルトルの「嘔吐」より、また「シジフォスの神話」、「反抗的人間」の方がサルトルの哲学書よりも気に入った。サルトルとカミュは論争の果てに仲が悪くなってしまった。私がサルトルを好きになれなかったのは、彼の醸し出すブルジョア的雰囲気を感じ取ったからだろう。それに加えて、安易に「参加」を唱えて共産主義に傾いていったように思えたからであろう。

 

このブログを書くにあたり、本棚を探す事はしなかった。なぜならこの頃に買って読んだ本、サルトルやカミュの著作、安部公房や大江健三郎の小説などのほとんどは、金に変えてしまったからである。大体で本棚の2段分もあったと思う。片思いだった同級生の女に長崎まで会いに行くための電車代と首尾よくいった場合の食事代等を必要としたからである。本の大半は当時の大学時代の友達の1人であったN君が買い取ってくれ、残りは古本屋行きになった。当時は古本屋が割と高く買ってくれていた。友人の1人は私のベルトが汚いと言い、自分のを貸してくれた。彼女の勤務先で仕事が終わるのを待ち伏せしていたところ、案の定、これ以上付きまとわないでと厳しい顔で振られてしまった。私を送り出した仲間は、皆でまずだめだろうと言い合っていたと、後で聞かされた。実存主義にあまり良い印象が無いのは、この記憶がつきまとうためだろう。

 

構造主義

構造主義と言えば、レヴィス=トロースである。実存主義が色あせていったひとつに、自由意志の問題がある。自分の意思で決めたかのようであるがそうではない。それは自分の無意識 (自我) に左右されていると言う考えがフロイト心理学によってもたらされたからである。こうなると、自由意志もあやふやになるなってしまう。そうすると再び、人間は生きていく指標を失う。これを救うために現れたのが構造主義である。私が読んだ覚えがあるのは、レヴィ=ストロースの「悲しき南回帰線で」である。南洋の現地人に密着してその生活を観察している。その中である普遍的な仕組み、構造、あるいは生き方があることを指摘している。言われてみれば当たり前のことだろう。我々が育った貧しい島の暮らしを思い出してみてもそうである。人々が生きていくときに、さほど意識的ではないものの、しきたりがある。このしきたりは、人々が勝手に考え出したのではなく、一緒に生きていくときにうまくいくための、誰が考えても同じ様になる普遍的構造 (制度) である。それで、実存主義が廃れた後の人々の生き方に安心を与えた。

 

ポスト構造主義

ただし、この構造主義もそんなに長く続かなかった。変人ウィトゲンシュタインが現れ、「哲学の問題を全て解決した、哲学を終わらせた」と宣言したからだ。著者の言葉をさらに続ける。「哲学なんて無意味だよ ()。実はさぁ、今まで哲学者がごにょごにょと語ってきたことって、全部、言語の使い方の勘違いから生まれた、「無意味な言葉の羅列」に過ぎなかった。と言うわけで哲学なんて終わり。はいはい、解散解散()」。例えれば、「神は存在する」と言う文章は言語だろうか? これは言語では無いそうだ。「私は彼を愛している」も事実として確認しようがないので言語ではない。

 

ここまでが彼の前期の思想であるそうな。後期になると訂正するそうだ。言葉と言うものは、「どういう状況で使ったかによって意味が変わる」と言ったそうだ。当たり前である。しかもその意味はゲームのルールのようなもので、それは人間が勝手に作り出したもので、普遍的構造はないと主張した。すなわち真理と善を追求する哲学を終わらせてしまった。私はこの時期から以降の哲学書を読んだことがない。このような解説を聞いてわかったような気になっている。

 

ポスト構造主義をまとめて、著者は、「真理批判主義」あるいは「反哲学主義」と説明する。今や世界は真理 (唯一正しいもの、真の宗教、理想の政治思想) を求めて争うものならそれだけで致命傷になると言う。凶悪な兵器で人類が破滅するので、喧嘩してでも意見をぶつけ合うのはナンセンス。そこで知識人においても、「お互いの立場を尊重し、多様性を大事にしよう」となる。だったら真理を求めるのはやめにしようと言い出したのが、アルジェリア生まれのデリダだそうだ。彼の哲学は「脱構築」と言われている。著者の言葉では、「学問界の偉そうな年寄り連中が、ビルみたいなカチカチの理論を構築したがるけれど、そうゆうのはうんざりだよね! そういう構築の風潮から脱出しよう! 今までの弁証法的な意見交換はやめて、相手の懐に飛び込んで、その考え方の不確かなところを暴いて違う意味を見つけて論を広げて行うと言う、まっとうな考え方である。しかし、デリダの真意から外れ、世間は単なる構造や真理を否定する安易な風潮になっていると著者は嘆いている。確かに、「ポスト真実主義」あるいは、「別の真実」と言う言葉がある。アメリカのトランプ大統領やその支持者は、この脱構築の哲学を誤解して使っているようである。

 

ボードリヤールが最後の哲学者として紹介される。私は耳にしたことがない名前である。ボードリヤールの説は、著者の解説によればこうなる。今の資本主義は究極の段階であり、これは永遠に続くと言っているそうだ。経済が発展したので、衣食住は確保され、商品は意味のない、いわば記号、例えば何百万円もする腕時計、他とは違う贅沢な行い、など、いわば記号が商品になっており、記号は永遠に消費され続くと言う。ここで、労働者は記号を消費させられ、資本主義のもとで延命治療で生き延びさせられている、植物状態の病人のような存在となっていると言う主張のようだ。つまるところ人類は、「真理」や「構造を生み出している枠組み = 社会」にとらわれて生きているのみである。このようにして、「哲学は死んだ」と宣言している。もはや、画期的な「〇〇主義」は現れない。資本主義システムの歯車として生きていくしかないと言う、暗い結論になる。

 

この問題を解決するために、この本の著者は、「働かない社会を作るにはどうすれば良いか」と考える事が重要だと言う。その解決策としてニート(NEET: not Engaged, not in Education and Training)を上げて終わる。ただし、そのニートは自分の意思をもって時間を過ごすことができる真性ニートでなければならない。私は、ここでの「自分の意思」の確かさをどう考えていいかわからない。

 

これまでは歯切れが良かったのに、結論は尻すぼみに思える。まず批判すべきは資本主義がこのままずっと続くと考えることだろう。資本主義経済に対する地球の限界は、すでに指摘されている。また、地球上には十分な食物と衣類そして住居が与えられていない人々がたくさんいる。この問題を解決する哲学が求められており、その萌芽の兆しはあるように思える。私の意見では哲学はまだまだ終わらない。

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