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南無阿弥陀仏と無限大 ∞

  南無阿弥陀仏は、ほとんどの人が知っているだろう。しかし、漢字が意味するところは仏の所しかわからない。その理由は、この言葉はもともと、インドのサンスクリット語の発音を中国の漢字で表したものだからだと本で読んだことがある。(他の例をあげる。マルクス( Marx )を中国では、馬克思と書く。中国人の姓で馬を名乗る人がいるし、克思の意味もそれらしく感じられるところが妙訳だ)。その本を本棚に探す事はここではしないので、以下は、うろ覚えである。英語の起源をインド・ヨーロッパ ( 印欧 ) 語源で説明してあったところに出ていた。一番よく覚えているのは、 catch, cap, have の語源が、印欧語で動物 ( 牛 ) の頭を両手でつかむことを表した kap から来ているというところだ。印欧語を話す語族はカスピ海付近で始まり、そこでは牧畜が盛んだった。それで、この説明は納得がいく。この語族はその後、インドとヨーロッパに散っていった。それで、インドとヨーロッパの言葉は共通の起源を持っている。 話を元に戻す。南無阿弥陀仏は英語風に書くと、 Name ameter Budda だと書いてあったと思う。なるほど、ナムアミダブツに近い。「測りがたいほどの ( 徳のある ) 、仏の名前を唱えなさい」と言うものだ。 ameter の語源はおおよそ見当がつく。シップリー英語語源辞典 ( この本はとても面白い。読む本がないとき、適当なページを開いて気になる単語のところを見るだけで楽しい ) に当たってみたけど出てなかった。例によってネット検索すると、「 me, meter, metry ( 量る ) の英単語の意味まとめ」として出ていた。 ameter の a は否定を表す接頭辞である。それで、量れないの意味になる。以上で前置きを終わる。 「無量大数」と言うものがある。これも、仏教用語だ。量ることができない大きな数、すなわち ∞ を意味していると思っていた。調べてみると大きい数だけども有限の値のようだ。ところで、 ∞ と言う概念はいつ頃出てきたのだろうか。 ∞ はある程度想像できるけれど、数学になると最も難しい概念のような気がする。数学は無限大との闘いだと私は思う。無限大あるいは無限大に近い数がなければ、たいていの数学の問題は解けるだろう

数学論文投稿(電子情報通信学会 3度目の拒絶)

 書き直して投稿していた3度目の投稿も 編集者から拒絶通知 が来ました。二人の 査読者A , 査読者B からのコメントもあげています。どちらも厳しい意見です。査読者からの有益な指摘のおかげで、私の主張も明確になり、議論が核心に近づいております。ただし、私は 全面的に反論 しています。4度目の 書き直し原稿 をあげていますので、興味がある方は読んでください。そして、論文が受理されるために助言を頂ければ幸いです。今回のやり取りは、すべて日本語でしているので、わかりやすいと思います。

新渡戸稲造「武士道」( 岬龍一郎訳)

  テニスと畑の仲間の 1 人が、最近、読んで私に勧めてくれた。著者は有名であるし、この本の題目も知ってはいた。新渡戸稲造は札幌農学校の第 2 期生である。内村鑑三と同輩であり、著者もプロテスタントである。前文によれば、 1899 年に、米国ペンシルバニア州で英語で書き上げたものである ( 「 Bushido -The Soul of Japan 」 ) 。執筆の動機は、ある外国人から、「日本の学校では宗教教育はないと言うのですか」と驚いて言われたことである。人々の行動規範、道徳は、西洋ではキリスト教が土台となっている。著者は、それが日本では「武士道」であるとの考えに至った。章立てを以下に示す。   第 1 章 武士道とは何か、 2 章 武士道の源はどこにあるか、 3 章 義 - 武士道の礎石、 4 章 勇 - 勇気と忍耐、 5 章 仁 - 慈悲の心、 6 章 礼、 7 章誠 - 武士道に 2 言がない理由、 8 章 名誉 - 命以上に大切な価値、 9 章 忠義 - 武士は何のために生きるか、 10 章 武士はどのように教育されたのか、 11 章 克己、 12 章 切腹と仇討ち、 13 章 刀 - 武士の魂、 14 章 武家の女性に求められた理想、 15 章 武士道はいかにして「大和魂」となったか、 16 章 武士道はなお生き続けるか、 17 章 武士道が日本人に残したもの 以上を眺めれば、内容の大方の検討はつくであろう。日本人の道徳感を表したもので、私が読んだことがあるのは、「葉隠れ」、「茶の本」、「菊と刀」、「無用者の系譜」(唐木順三)などを思い出す。この本の著者の語り口の良いところは、武士道を、西洋の騎士道やキリスト教その他とを、多数の具体例を出して比較検討しているところである。著者は西欧の精神に負けないくらいに、武士道の精神は崇高であると言いたかったのだろう。例えば、次のことが書かれている。菅原道真の恩に報いるために、道真の息子の代わりに、偽って我が子を差し出して、首をはねさせた夫婦の話である。著者はこれを旧約聖書に出てくる、アブラハムがイサクを犠牲にしたような話と同じくらい、意義深いものだと書いている。私はこの件については、どちらも賛成できない。 この本は世界で評

アブッテカモとクサブ

  アブッテカモを知っている人は少ないだろう。博多では知られている。本称はスズメダイである。餌取りの名人で、特に磯や堤防でフカセ釣りをする人に嫌われている。見た目が黒く、変に長い背びれを持っていて、姿かたちもやや異様である。口が小さいので、針にかかることが少ない。かかっても、釣り人は持ち帰る事はあまりない。ところが、博多の人々は、好んで食べていると聞く。炙って焼いて食うそうだ。クサブは私の田舎での呼称であり、ベラのことである。赤や青の原色が特徴で、いかにも暖かい海にいる特徴を有する。歯はかなり鋭く、サンゴ礁や砂場の虫などを食べているのだと思う。関東では、釣っても捨てているようだ。福岡では魚屋に並んでいることもある。白身で淡白な味がする。私が育った五島 ( 列島 ) ではカサゴ ( 五島ではアラカブ ) と並んで、特に産後の人に喜ばれていた。後で知ったことには、沖縄ではクサブベラと呼んでいる。本土ではクサブとベラに分かれて呼ばれているのだ。 私は、子供の頃 1 人で伝馬船を漕ぎ出して、湾の沖合の砂浜と岩礁帯のきわ ( 駆け上がり ) に錨を落として、このベラとアラカブを釣りによく行った。アラカブを天草地方ではガラカブと言うようだ。 GARAKABU と書いてみよう。日本語では母音の前の子音を省略することが多い。例えば OOKITA>OOITA 、 SAKITAMA>SAITAMA など。それでガラカブがもともとの呼び方だったのだろう。   何年か前に、中学校の同級生会が島であった折、私が退職後に実家に釣り船を買ったことを知っている、同級生 5 人ぐらいが前にやってきて、私の船で釣りに出た。大物を釣らせたかったので、当時流行っていたタイラバ仕掛けで、クエ ( ハタ、アラ ) を狙わせた。この時は喰いが悪く、 1 人が赤ハタを 1 匹釣ったのみだった。女性が 1 人おり、彼女は島原に嫁いでいて、そこで知人の船でよく釣りに出ているそうだ。彼女がしびれを切らして、もう少し釣れるところへ 移動しようと言い出した。私はこの事態を予想していたので、早速、ベラ・アラカブ釣りに変えて、船を磯近くに動かした。案の定、入れ食い状態だった。湾の外の沖合であったので、ベラもカサゴもかなり大きなものばかりだった。みんな喜

白井 聡「主権者のいない国」(4) 反知性主義と精神分析

  ここの副題は本に現れているものではない。私が勝手に付けた。この本の内容を紹介する枠組みをどうするかについては、最初から整理しなかった事は (1) で書いた。 (3) 新自由主義と反知性主義を書いてからは、今回の副題はすんなりと決まった。 反知性主義が幅をきかすようになったこととして、著者は 2 つの文脈を挙げる。 1 つは、大量生産による経済成長で登場した総中流社会が、新自由主義経済体制 ( グローバル化 ) により崩壊し、新しい下層階級が生じたことである。もう一つは、哲学・思想界における人間の心の有り様について、従来の指針である「人間の完成」が否定され、「人間の死滅」 ( 考えない人間の登場 ) が生じたと言うものだ。後者については後ほど説明する。反知性が学歴には関係ないとして、次の例を挙げる。第二次安倍内閣で内閣総理大臣補佐官を務めた磯崎洋介参議院議員 ( 自民党、 2019 年に落選 ) は 、「時々、憲法改正草案に対して、「立憲主義」を理解していないという意味不明の批判をいただきます」、「そんなことばは聞いたがありません」と Twitter 上で発言し、話題になったそうだ。この人物の最終学歴は、東京大学法学部卒である。法学部の卒業者が「立憲主義なんて聞いたことがない」と言うのは、例えるなら、英文学科の卒業生が「シェイクスピアなんて聞いたことがない」と発言するのに等しかろうと著者は貶している。自分の無知を堂々とさらけ出すことができるのは反知性主義の特徴であろう。   反知性主義は大衆民主主義の時代になって、大衆の恒常的エートス ( 習慣、考え方、生活態度 ) となる可能性があると指摘する。「大衆の反逆」を書いたオルテガは、古くからこのような危惧を表明している。政治権力が反知性的大衆を取り込むことが度々起こる。著者は、米国におけるマッカーシズム、中国の文化大革命、ベトナムにおけるポル・ポト派による知識人弾圧を例として挙げる。そして、新自由主義においては、「グローバル化の促進が自らの階層的利益に反することを理解できない、オツムの弱い連中をだまくらかして、支持させればよいではないか」と言うシニシズム ( 冷笑主義 ) に陥ったと書く。この事態を防ぐために、 1990 年代に中間層の没落を防ぐ方法として、

白井 聡「主権者のいない国」(3) 新自由主義と反知性主義

新自由主義は、従来、「小さな政府」とか「自由放任」で表されていた。しかし、 2008 年の金融危機で各国政府は大々的な経済介入を行った。それで、その表向きのイデオロギーは破綻した。ただし、新自由主義が終わったわけではない。そのわけはなぜか。先に挙げた 2 つの言いがそれを代表していたのではなく、新自由主義の本質は「世界で 1 番企業が活躍しやすい国」に現れていると著者は指摘する。企業とは資本であり、資本のやりたい放題ができる空間を作り出すことであると続ける。その主体は、資本自身よりもむしろ国家が担い、国家権力を媒介として機能しているとの、ナオミ・クラインの説を紹介する。   新自由主義が今も続いているのは、「上からの」国家権力だけでは説明できないで、大衆が「下から」どのように反応したかが大事だと続く。例えば、安倍政権を長期的に支持した国民の考え方、いわば「文明としての新自由主義」を探る必要がある。そのため、著者が考えたのは、マルクス「資本論」で展開される 1 つの概念、「包摂」 (subsumption) である。それは、自給自足的に生きていた人々が、市場向けの商品の生産を始めることにより、最初は「形式的に」資本主義に参加するものの、やがては資本によって準備された生産手段の付属品として働くようになる事態を示す。資本による労働者の包摂は、労働を終え工場を出た後も、消費と言う欲望を煽り立てられて、大して要りもしないものを、いわば、見栄としての「意味」を買わされることにもなった。   このいわば、「魂の包摂」は日本では固有の特色を帯びていると言う。著者は、その例として、 2020 年 4 月に発覚したパナソニック産機システムズにおける、就職内定者の自殺事件を挙げる。内定者たちが義務付けられた SNS 上で、人事課長がパワハラを繰り返し、不安と絶望から精神疾患を発病した内定者の 22 歳男子が 2019 年 2 月に自殺した。パワハラ行為の言葉として、「ギアチェンジ研修は血みどろになる位に自己開示が強制され、 4 月は毎晩終電までほぼ全員が話し込む文化がある」。ここにおける「自己開示」の意味不明さとして、著者は、連合赤軍事件の「総括」を思い出すと言う。「総括」が完璧な革命戦士を作り出そうとして、虐殺に至ったように、「自

白井聡「主権者のいない国」(2) 日本史の汚点としての安倍政権

  真の問題は、失敗を続けているにもかかわらず、それが成功しているかのように外観を無理矢理作り出したこと、すなわち、嘘の上に嘘を重ねることがこの政権の本業となり、その結果、「公正」や「正義」といった社会の健全性を保つために不可欠な理論をズタズタにしたことに他ならない、と著者は言う。   伊藤詩織に対する元 TBS 社員山内敬之のレイプとそのもみ消し。山口は安倍晋三にとって貴重な提灯持ちの似非ジャーナリスト。そのため、犯行そのもの、逮捕の撤回、もみ消しが行われた。その当事者の中村格警視庁刑事部長はその後、出世した ( 現在、警察庁次長として、警察庁長官の最有力候補 ) 、森友学園、加計学園、桜を見る会の件は、腐りきった本質をさらけ出した。さらに、真面目な公務員赤木俊夫を死においやる。高い倫理観を持つ者が罰せられ、阿諛追従して嘘に加担するものが立身出世を果たす。もう、法治国家ではなく安倍政権の「私物化」である。国有財産や公金のみではなく、若い女性の性や真面目な官吏の命まで私物化した。さらに、元号制定に至るまでの彼の振る舞い、大学入試改革と称して民間業者を導入する主たる動機は安倍の忠実な従僕たちの利権争い、新型コロナ対応のための補助金支給業務においての腐敗が、起きた。私物化の原則は権力の頂点から恥を知る者を除く万人を私物化競争へと誘い誘い出したと過激に書く。そして、これらの事件が国家や社会の未来に直接関係することではなく ( 例えばロッキード事件 ) 、ただひたすら、凡庸でケチくさいと書く。しかし、その影響は小さくなく、社会的有害性は見逃すと取り返せないまでになると危惧しているようだ。   次に著者は、マスメディアが共犯者になったと指摘する。「大マスコミ各社は、さながらヒラメの養殖場と化した」、と言われても分からないだろう。経営トップの権力との癒着・忖度は、その下で働く者達の層へトリクルダウンして、上司へヒラメのように上目遣いしながら働く、と言うことだ。   私が特に興味を持ったのは、「体調不良による辞任」の演出、共犯者としてのメディアのところである。安倍政権のゆき詰まり ( 黒川弘務を検事総長にするための無理矢理な定年延長、河合夫妻選挙買収事件、新型コロナ対策、東京五倫など ) において、安倍晋三にとって