新渡戸稲造「武士道」( 岬龍一郎訳)

 

テニスと畑の仲間の1人が、最近、読んで私に勧めてくれた。著者は有名であるし、この本の題目も知ってはいた。新渡戸稲造は札幌農学校の第2期生である。内村鑑三と同輩であり、著者もプロテスタントである。前文によれば、1899年に、米国ペンシルバニア州で英語で書き上げたものである (Bushido -The Soul of Japan)。執筆の動機は、ある外国人から、「日本の学校では宗教教育はないと言うのですか」と驚いて言われたことである。人々の行動規範、道徳は、西洋ではキリスト教が土台となっている。著者は、それが日本では「武士道」であるとの考えに至った。章立てを以下に示す。

 

1 武士道とは何か、2 武士道の源はどこにあるか、3 -武士道の礎石、4 -勇気と忍耐、5 -慈悲の心、6 礼、7章誠-武士道に2言がない理由、8 名誉-命以上に大切な価値、9 忠義-武士は何のために生きるか、10 武士はどのように教育されたのか、11 克己、12 切腹と仇討ち、13 -武士の魂、14 武家の女性に求められた理想、15 武士道はいかにして「大和魂」となったか、16 武士道はなお生き続けるか、17 武士道が日本人に残したもの


以上を眺めれば、内容の大方の検討はつくであろう。日本人の道徳感を表したもので、私が読んだことがあるのは、「葉隠れ」、「茶の本」、「菊と刀」、「無用者の系譜」(唐木順三)などを思い出す。この本の著者の語り口の良いところは、武士道を、西洋の騎士道やキリスト教その他とを、多数の具体例を出して比較検討しているところである。著者は西欧の精神に負けないくらいに、武士道の精神は崇高であると言いたかったのだろう。例えば、次のことが書かれている。菅原道真の恩に報いるために、道真の息子の代わりに、偽って我が子を差し出して、首をはねさせた夫婦の話である。著者はこれを旧約聖書に出てくる、アブラハムがイサクを犠牲にしたような話と同じくらい、意義深いものだと書いている。私はこの件については、どちらも賛成できない。


この本は世界で評判になり、何ヶ国語にも翻訳されている。当時の米国のルーズベルト大統領も感動した1人であり、家族や友人に配ったと前書に書いてある。翻訳者の岬龍一郎は、この本の解説を平成158月に書いている。それによれば、あと何ヶ月か続いたとしたら負けたであろう「日露戦争」の終結のために、ルーズベルト大統領が動いたのは、この本の影響があると言う。ただし、私はこの件については、当時の日本の政府・軍部の首脳が日露戦争を冷静に判断し、金子堅太郎を米国へ派遣して終戦のための工作を行ったことが大きい、と思う。日米開戦に至るルーズベルト大統領の動きからしたら、単に日本人の武士道精神に感銘を受けただけとは思われない。「菊と刀」で分析したように、武士道における名誉、恥、死ぬことをいとわないと言う考え方を、この本を読んで知っていたので、これを利用して日本を開戦に仕向けていった可能性は十分に考えられるからである。宣戦布告が間に合わないうちに、日本が真珠湾攻撃を行った結果、アメリカが参戦することになって、飛び上がって喜んだ2人がいた。よく知られているように1人は英国のチャーチル首相である。もう1人は、私が最近NHKの番組で知った。中国の国民党を率いる蒋介石である。彼らは、どちらもアメリカが参戦してくるように工作を重ねていた。


私は、武士道における、義、誠、などの道徳概念を否定しない。これらは人類が仲間(群れ)を作って生き延びてきた過程において、獲得してきた知恵であると思う。生き延びる知恵であるから、たとえ未開の民族であっても、共有される道徳律が必要になるはずである。レヴィ・ストロースの「悲しき南回帰線」では、その事実をしっかり書いてあったと思う。人間が集まって生活するための掟であるから、ある程度、似たものになるはずである。武士道が西洋の騎士道の精神に通ずるのは当たり前であろう。ただし、その時の経済政治体制によって (マルクスによれば下部構造)重きが変わる。訳者は、最近の新自由主義がもたらしている、道徳の劣化について強い危惧を示している。そこで武士道の精神を大事にせよと言っているようだ。

 

最近、私が思っている道徳律は、「死ぬな」、「殺すな」、「不運の人を助けろ」である。武士道よりもごく少ない項目なので、世界共通にするのに良いのではないか。

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