白井 聡「主権者のいない国」(4) 反知性主義と精神分析

 

ここの副題は本に現れているものではない。私が勝手に付けた。この本の内容を紹介する枠組みをどうするかについては、最初から整理しなかった事は(1)で書いた。(3)新自由主義と反知性主義を書いてからは、今回の副題はすんなりと決まった。


反知性主義が幅をきかすようになったこととして、著者は2つの文脈を挙げる。1つは、大量生産による経済成長で登場した総中流社会が、新自由主義経済体制 (グローバル化) により崩壊し、新しい下層階級が生じたことである。もう一つは、哲学・思想界における人間の心の有り様について、従来の指針である「人間の完成」が否定され、「人間の死滅」(考えない人間の登場) が生じたと言うものだ。後者については後ほど説明する。反知性が学歴には関係ないとして、次の例を挙げる。第二次安倍内閣で内閣総理大臣補佐官を務めた磯崎洋介参議院議員(自民党、2019年に落選) 、「時々、憲法改正草案に対して、「立憲主義」を理解していないという意味不明の批判をいただきます」、「そんなことばは聞いたがありません」とTwitter上で発言し、話題になったそうだ。この人物の最終学歴は、東京大学法学部卒である。法学部の卒業者が「立憲主義なんて聞いたことがない」と言うのは、例えるなら、英文学科の卒業生が「シェイクスピアなんて聞いたことがない」と発言するのに等しかろうと著者は貶している。自分の無知を堂々とさらけ出すことができるのは反知性主義の特徴であろう。

 

反知性主義は大衆民主主義の時代になって、大衆の恒常的エートス (習慣、考え方、生活態度)となる可能性があると指摘する。「大衆の反逆」を書いたオルテガは、古くからこのような危惧を表明している。政治権力が反知性的大衆を取り込むことが度々起こる。著者は、米国におけるマッカーシズム、中国の文化大革命、ベトナムにおけるポル・ポト派による知識人弾圧を例として挙げる。そして、新自由主義においては、「グローバル化の促進が自らの階層的利益に反することを理解できない、オツムの弱い連中をだまくらかして、支持させればよいではないか」と言うシニシズム (冷笑主義) に陥ったと書く。この事態を防ぐために、1990年代に中間層の没落を防ぐ方法として、いわゆる第3の道が模索されたものの成功しなかった。

 

著者はスティーブ・ジョブズ (アップルの指導者)がスタンフォード大学の卒業式で話したことを紹介する。「Stay hungry, Stay foolish」は、世界的なスローガンとなった。1%のグローバルエリートにとって、この言葉は「際限なく貪欲に富を追求せよ、そのためにはクレイジーなアイディアを次々に脳内に湧き出させろ」と言う内容を意味し、その他大勢に対しては、「お馬鹿なまま、飢えていろ」と言うことに他なるまいと、著者は指摘する。


知性の劣化として、大学の変質、学問の変質にふれた後、精神医学、臨床心理学に話題を移す。そこでは、脳生理学及び薬の発展により、「人間の死」が起きていると書く。ラカン派精神分析家、立木康介の本、「露出せよ、と現代文明はいう-「心の闇」の喪失と精神分析」を紹介する。この本は認知行動療法 (説明はさほどしていない。私が思うに、患者の精神 ()にはあまり触れないで、もっぱら、生理学や薬の使用に重点を置くもの)を「精神療法会のファーストフード」であると指摘している。私はこの本を慌てて買って、ざっと読み終えたところである。白井聡は、立木康介の論を、「今日出現した「新しい主体」、「精神なき主体」の様相を精神分析を擁護する立場から批判的に抽出している、と紹介する。そして、「新しい人間 = 精神なき人間」(人間の死) は、現代の反知性主義の担い手であると、白井聡は推論している。

 

今まで登場した単語の関係として、自己開示 = 露出 = 心の闇の喪失 =人間の死反知性とつながっているようだ。この辺の論の紹介は私の手に余る。あまり自信がないけれど、立木の本を含めた私なりの理解を書くことにする。


フロイトが考え出した人間の精神における「無意識」と言う概念が今でも有効であると認識すべきだと、両著者(特に立木康介)は考えている。この概念は、認知行動療法の流行により、現在重視されていないようだ。 フロイドの「無意識」と言う概念は、それまでの哲学・心理学会での、人間の精神の完全性あるいは真理 (デカルト、カントやヘーゲルなどの) への素朴な信仰に対して、大きな疑問を突きつけた。その考えに悪乗りして出てきたのが、反知性主義の元になっている。「真理/権威の否定」を主張する脱構築主義(ただし、本来の意味を曲解し、単純化し、自分で考えることを放棄して、単にこれまでの真善美を否定する流派)である。


「無意識」は人間の心の有り様が、自分で考え、理解して、言葉で表現されたものは、そのまま正しいものではなく、自分が好ましくくないものとして「抑圧」してきた何者か (闇に隠れている)に歪みを受けていることを明らかにしたものである。フロイトは神経症の治療実践においてこの概念に考え着いた。さらに、これを治療に使用した。自分が抑圧した「都合の悪い真実」に気づいて明るみに出せば、神経症の病状が治まるそうだ。私のブログでも紹介した、岸田秀は自分自身のこの体験を繰り返し述べている。そして、この分析手法が国家国民全体の考えや行動の理解にも有効であることを、数々の具体例で示している。


結論から先に述べよう。反知性は自分の考えがひょっとして間違っているかもしれないとは思わずに、正しいと信じ思い込んでいることを表している。精神分析の用語で言うならば、「抑圧」ではなく「否認」である。「抑圧」は、いずれその影響が表に出てきて困った事態になる。これに対して、「否認」は、もともとそのような問題はないと楽観し、自分が正しいと信じて行動する。したがって、さしあたりの問題症状は出ない。さらには、自分の考えを公にさらけ出すことを恥としない。しかし「否認」を基にした行動は最終的には破滅的結果になるだろう。

 

昭和の戦争における、指導者層及び国民の馬鹿げた判断は、起こるであろう問題を「否認」したからである。曰く、中国は一撃で叩きのめせる、米国は参戦しないなどと、自分で勝手に決めこんでいる。事実を正視しないで「否認」しているのだ。東條英機は、「負ける事は無い。なぜなら、自分が負けたと思わない限り負けたことにはならないから」と言う言葉を吐いて、現実を見ることを否定している。


立木康介の論は、私にとって、新鮮だったところがある。「抑圧」している得体の知れない「心の闇」は、決して明るみに出し尽くせるものではなく、そして、出し尽くしてはならないものと言うところだ。それは、自分が人間として、自分の頭で考え続けるための源泉になっているからだ。この源泉が枯れると人間の精神も死に至ると言うようだ。


最後に繰り返そう。反知性主義者あるいは「新しい人間」は明るく楽天的な考えに満足している。それは疑うことを忘れて、信じ込んでいるか、あるいは誰かにそうされているだけのことだ。


白井聡のこの本は、皆に対して、特に反知性主義に陥って自己責任と自分を責めている不運な弱者、特に若者に向かって、目覚めて自分の頭で考えろ、そして闘えと扇動している、と私は要約する。

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