白井 聡「主権者のいない国」(3) 新自由主義と反知性主義

新自由主義は、従来、「小さな政府」とか「自由放任」で表されていた。しかし、2008年の金融危機で各国政府は大々的な経済介入を行った。それで、その表向きのイデオロギーは破綻した。ただし、新自由主義が終わったわけではない。そのわけはなぜか。先に挙げた2つの言いがそれを代表していたのではなく、新自由主義の本質は「世界で1番企業が活躍しやすい国」に現れていると著者は指摘する。企業とは資本であり、資本のやりたい放題ができる空間を作り出すことであると続ける。その主体は、資本自身よりもむしろ国家が担い、国家権力を媒介として機能しているとの、ナオミ・クラインの説を紹介する。

 

新自由主義が今も続いているのは、「上からの」国家権力だけでは説明できないで、大衆が「下から」どのように反応したかが大事だと続く。例えば、安倍政権を長期的に支持した国民の考え方、いわば「文明としての新自由主義」を探る必要がある。そのため、著者が考えたのは、マルクス「資本論」で展開される1つの概念、「包摂」(subsumption)である。それは、自給自足的に生きていた人々が、市場向けの商品の生産を始めることにより、最初は「形式的に」資本主義に参加するものの、やがては資本によって準備された生産手段の付属品として働くようになる事態を示す。資本による労働者の包摂は、労働を終え工場を出た後も、消費と言う欲望を煽り立てられて、大して要りもしないものを、いわば、見栄としての「意味」を買わされることにもなった。

 

このいわば、「魂の包摂」は日本では固有の特色を帯びていると言う。著者は、その例として、20204月に発覚したパナソニック産機システムズにおける、就職内定者の自殺事件を挙げる。内定者たちが義務付けられたSNS上で、人事課長がパワハラを繰り返し、不安と絶望から精神疾患を発病した内定者の22歳男子が20192月に自殺した。パワハラ行為の言葉として、「ギアチェンジ研修は血みどろになる位に自己開示が強制され、4月は毎晩終電までほぼ全員が話し込む文化がある」。ここにおける「自己開示」の意味不明さとして、著者は、連合赤軍事件の「総括」を思い出すと言う。「総括」が完璧な革命戦士を作り出そうとして、虐殺に至ったように、「自己開示」は完璧な社畜 (会社に飼われた家畜化した人間) を作り出そうとして殺人に至ったと言う。これは、日本における独特の同調圧力などと言う生易しいものではないと続ける。人格を全面的に破壊し、会社の論理を完全に内面化した新しい人格に作り直すと言う、人間性に対するテロ行為だと断じる。このような傾向は、学校と会社の日常生活で極めて強制されてきたと言う説を紹介している。

 

著者は、これらの現象は、資本における生産性至上主義から要求されていると論を進める。ただし、たくさんの話題を個別に論じているので、私にはそのつながりがもう一つはっきりしない。特に、新自由主義と反知性主義との関係である。その糸口は著者の次の文章であろう。

 

我々は、新自由主義とは、基本的には政治経済的政策における一定の傾向や原理であると言う見方からそろそろ離れるべきではないのか。新自由主義は、狭義には政策決定のイデオロギーであるが、その現実の影響力は狭い意味での政治の次元をはるかに超えている。それは、人間の精神に浸透することによって、一定の形而上学的な世界観を提供していると言う意味で、1つの文化あるいは宗教に近づいている。そうでなければ、ここ30年ないし40年の新自由主義の「成功(?)」は、説明がつかない。新自由主義とは、強引に推し進められてきたというよりも、大衆の支持を取り付けながら進行してきたのである。そして、その世界観とは、M. サッチャーの名(?)文句「社会というものは存在しない」と言う言葉で代表される

 

と著者は言う。サッチャーの言葉は「ゆりかごから墓場まで」と言われたイギリスの福祉政策が経済的に立ち行かなくなって、政府 (社会) をあてにするな、自分の事は自分で始末せよと言う意味であろう。著者は、「社会は存在しなくなった」という言い方をしている。新自由主義が成功しているのは、大衆が「自己責任」と言う言葉を与えられて、「社会」と言う見方を失ってしまっているからであろう。最近言われている「親ガチャ(を引いた)」と言う言葉は、自己の責任ではないけれども、親を選んで生まれてくることができなかった不運を嘆いているだけのようだ。なぜこのような考え方が広まっているかは、先に述べた資本による「魂の包摂」が行われ、さらに、新自由主義の思想に知性が欠けているからだと私は思う。そこに加担したのは新自由主義的精神を有する指導者たちであろう。

 

「反知性主義」と言う言葉に対して、著者は、単に知性を無視する(非知性)ではなく、知性を有する人を攻撃する考え方だと指摘している。知性の攻撃に成功した事例は、第二次世界大戦に突入する際に、日本の軍事、政治指導者、および、これを支持したマスコミ、さらには国民の行動にいくつでも見ることができる。

 

真理・真実を無視する反知性主義人間は、単に新自由主義的な資本によって生じてきたのではないかもしれない。真理を追求することをやめて、哲学を死に至らしめた、いわゆるポスト構造主義思想の影響もあると著者は主張している。

 

この本が良いところは、著者が心理学や精神分析にも踏み込んで、考察を深めているところである。この部分は後で紹介する。


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