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目の手術とセカンドオピニオン

  ある朝、新聞を読むのに支障があったのでメガネの右のレンズの曇りを拭いた。丁寧に行ったのに見え方が変わらない。確認すると曇りは無い。あれっと思って、メガネをとって片方ずつの目で見てびっくりした。右目が全体に霞んで見える。以前から白内障が始まっていると眼科医から指摘されていた。暗いところで新聞が見えにくいので、窓際で読むことが多くなっていた。また目が疲れやすく目薬をたびたびさすようになっていた。前からかかっていた、近くの眼科医に診てもらった。私が白内障が進んだのではないかと聞いたら叱られた。前の診察のとき、緑内障も始まっていると言われ、眼圧を下げる薬を目薬を処方されていた。緑内障の原因となる視神経の劣化は右目上端ごく 1 部に限られたていたことと、眼圧が正常値であったので下げる必要はないと思って、その後、診察を受けてこなかった。医者はこの点を非難したのだ。私は、霞がかかるのは白内障の症状でしょうと口答えした。彼は、緑内障でもそのような症状が出ると脅かしてきた。 この医者の欠点は、患者に詳しい説明をしないことだ。家内は、ここでぶどう膜炎と診断され、何年間も頻繁に通っている。あの医者はヤブかもしれないので、大きな病院で診てもらえと進言して、彼女は福岡市内の有名な O 眼科に行ったことがある。病名も治療も全く同じであった。ちなみに、この病院は O 眼科と提携しており、手術はこちらに回している。ぶどう膜炎が落ち着かないと白内障の手術はできないと言われ、カミさんの症状は良くならない。目の見え方が悪く日常生活に不便を感じている。耳も遠いのでテレビは近くからしか見ない。 今回の診断で、私は白内障と緑内障、おまけに網膜も異常が指摘された。手術のために、 O 眼科への紹介状を書いてくれた。私は白内障のみと楽観していたので、慌てた。 O 眼科に電話してみると、午前中の受付に間に合うと言う。電車とタクシーで乗りつけた。この病院にはずいぶん以前にかかったことがある。九大の箱崎キャンパスで働いていたとき、突然、目の中で火花が何発も出た。慌てて地下鉄に乗って行って診てもらった。このときは、網膜の 1 部が薄くなっており、液漏れがするかもしれないとのことでレーザー光の何百発かで凝固する手当てをしてもらった。以前に比べると、建物が改装され、広く明るい

つい先日のことである。買い物帰りの車で、跨線橋の上で渋滞のため信号待ちしていた時に、不思議な動きをするものを見つけた。田んぼの上で鳥が飛んでいるように見えた。よく見ると、どうやら鳥の鷹を模したビニール製の凧(タコ)である。どこかにくくられているようだ。糸の長さは10メートルもないくらい。これが実に不思議な動きをする。飛び上がると少しの間は、安定した飛行をするものの、急に落下する。獲物を捕まえるときの動作に似ている。田んぼに落ちたので、そのままと思いきや、突然、舞い上がる。これを不規則に繰り返す。これだと、スズメなどの害鳥は、怖がって近寄らないだろう。このときは、風の吹き方が具合が良かったので、特に効果的な動きをしたのだろう。 それにしても、なぜこのような動きをするのであろうか。安定して風に乗っていたのに、急に落下する物理的な仕組みがどうなっているのだろうか。また田んぼに落ちてから、再び舞い上がるのはどうしてだろうか。凧揚げをした人は知っているように、いちど地べたに落ちた凧が1人でに上がる事は極めて稀だ。よく上がるので有名なビニール製の三角凧 (米国の航空宇宙局NASAが形状を開発したと聞いている) なら、その可能性は考えられなくもない。特に稲と水面の間に風が通る空間があるので、その可能性は高い。しかし、そうすると、飛行が安定しているのに。急に落下する動作が理解しづらい。おそらくは、形状に工夫があるのだろう。長くは見ておられなかったので、形状は定かでないが、少なくとも三角凧とは違い、本物の鷹か鳶に近い形をしていた。これに秘密があるかもしれない。この凧はホームセンターの農具売り場にあると思う。そのうち、買ってみて試してみるつもりだ。  私は小学生の頃から凧揚げが好きで、自分で作って遊んだ。奴凧はよく上がるけれど、動きが単調で面白くなかった。最近の三角ビニール凧などあげようとは思わない。凧揚げは長崎が有名である。長崎ではハタと呼ぶ。竹ひごを十字に組んで結び、周りに糸を張り、紙を貼る。あげる人の糸の操作によって左右上下に自在に動かせるところに特徴がある。糸を引くと、凧の先端が向いた方向に動く。したがって、最初に挙げるときは真上にして素早く糸を引くのがコツである。長崎では春先に凧揚げをして遊ぶ習慣がある。昔は、庶民( ある程度の富裕層かも)がピクニック気分で弁当を持って

老人のゴルフ

ゴルフを始めたのは40歳位のときであった。会社にいて、研究所から移動通信事業部へ異動となったころだ。先に異動していた、研究所での上司と一緒に、通産省の財団から頼まれて調査報告書を書いた。その報酬が25万円ほど入った。上司が言うには、事業部ではゴルフが盛んで課長以上の管理職がほとんど参加しているので、私も始めろとのことだ。先の報酬は全部私が使って (報告書のほとんどは私が1人で書き、上司は少し手を入れたのみ) ゴルフ道具セットを買えと言われた。そして、練習も始めた。コースに出るのは年に2, 3回であったろう。職場でのゴルフの常で、若い連中は、朝早く暗いうちに起きて、年上の2、3人を家に迎えに行き、帰りに送った後、暗くなるころ自宅に戻る。ゴルフ場はずいぶん遠くにあった。それでもゴルフの費用はかなり高かったと、カミさんが今でも時折、口にする。当時、月いちゴルフと言う言葉を知った。毎月1回はゴルフをすると言う贅沢なことかと思っていたら、月に1度しかできないと言う意味だったと後で知った。  大学に移って、どこからか声がかかってきた。ゴルフをやる教授達をある会社が接待して招待する習慣が、前から続いていたようだ。ハイヤーが自宅に迎えに来て、終わったらお土産付きの懇親会がある。大学のOB、会社の上層部との顔つなぎの目的であったのだろう。ゴルフ場も最高クラスのものを使う。さすがに、途中から大学側も会費を出すようになった。それもあって、大学で開かれる競技会にも参加するようになり、仲間が多いゴルフ場の会員になることを勧められた。バブル崩壊の後であったので、会員権料は下がっていたけれども、今の相場の3倍程度は高かった。会員になったので俄然熱心になり、練習場には週に2度は行った。腕が上がってきてゴルフ場の毎月の例会に出て、C組 (ハンデ20以上)では何度も優勝した。今ではB組である。ちなみにベストスコアは79である。  練習場は車で5分位のところにある。年会費を3千円出すと、1時間900円で打ち放題である。距離はネットの中段で230ヤードと表示している。これにアプローチ練習場が付いており、2時間は無料である。最近は、行くたびに合計3時間はたっぷり遊んでいる。練習場のコンペ (レディースシニア) が年に8回あり、毎回、30組位の規模である。新人は支配人と一緒に廻らせてもらえる。彼はアメリカでプ

フーリエ積分における関数に対する条件

   フーリエ積分 ( 変換、逆変換 ) の理論において、扱う関数に対して、有界変動、微分可能、及び絶対可積分という条件などが登場する。その理論展開で、最も重要なものは、無限大周波数成分がゼロであることを示す、 Riemann-Lebesque の定理である。ここでも、絶対可積分の条件が出てくる。これらの数学概念がどのように関連しているかは、直ちには理解しにくい。数学は基本的には同語反復であるから、これらの概念の関係は分かってしまえば簡単なはずである。本稿は、これらの概念に対して、 私が学習したことをまとめてみた ものである。   詳しくは、青色下線部をクリックしてください。

風のみを動力とする車が風の速さよりも速く走れるか

  以前のブログに書いたヨットの 風上進行の原理 について、私があげた条件 の不備を指摘した甥っ子より、 表題の論争 を紹介された。米国の物理 学者 2 人が 1 万 ドルの金をかけて論争をしている。 1 人は デレク・ミュラー( A とする)という、有名な YouTuber である。 物理学の博士号を持っていると紹介されている。もう 1 人は アレクサンダー・クセンコ( B )である。有名な物理学研究施設 カブリ数物連携宇宙研究機構 所属の物理学者である。   ミュラー (A): プロペラを 乗 せてこれで車輪を回せば可能 クセンコ( B ) : 物理原理からして不可能 参考 : ヨットは風速の 2 〜 3 倍で走ることが可能。ただし風に 対 して 斜め方向のとき。同じ方向ではダメ。 カリフォルニア近くの砂漠で実際に人が 乗 って実 験 を行った。その 結果、 A は自分が正しいと言う結論を出した。彼の説明は、プロペラの羽根が風向きに対して斜め方向に回転しているのが鍵だと言っているように思える。確かに、プロペラの先端は風の速さよりも速いだろう。しかし、これが根拠になり得るか。   これに 対 して、 B は実 験 の不備を指摘した。実 験 結果は速度が一定でない特殊な 状 態 での結果であると主張している。すなわち風が急に弱まって、 風速が落ちた直後では、車の運動エネルギーにより風よりも速く走 る。その結果を示しただけである。定常 状 態での実 験 を行うべきだ と主張した。それで、まだ決着がついていない。   これは昔に 読 んだ、板倉聖宣の本、 「 仮 説 実 験 授業」の大人専門家版であ ると言える。いかにも米国らしい 楽 しい話である。   私は B に賭ける。 そして実 験 の改良を次のように提案する。     (1) 実 験 精度向上と費用削減のために 、車を小型化する。   (2) 半 径 1 メーター位の半円筒(トンネル)の中で実 験 する   (3) 風は送風機で送る   (4) できればプロペラ推進機構を 1 方向のみにする。すなわち、    車輪からのプロペラへの力の伝達はできない歯車を作う。    こうすれ ば、風と車の相

英文法の「なぜ」、朝尾幸次郎、大修館書店

  「英語の歴史をたどれば、現代英語の「なぜ」の起源が見えてくる。英語の「進化」の過程をひもとくと、もともとあった「規則」が現れます」、と帯に書いてある。導入として聖書の 1 文の表記についての変遷が次のように紹介される。 日本語訳では次のようになる。 (1) 天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように 現在の英語 (2) Our father in heaven, help us to honor your name   近代英語 (1500~1990 年 ) (3) Our Father which art in heaven, Hallowed be thy name 中英語 (1380 年頃 )       ウーれ ファーディる さット アるト イン ヘベネス ハーレウイッド ベー すイー なーめ (4)   Oure fadir that art in heuenes, halewid be thi name 古英語 (449~ 1100 年頃 ) ファーディる   ウーれ スー せ エアるト オン へオウ“オスム フィー すイーン ナマ イエハールド (4)   Faeder ure pu pe eart on heofonum, Si pin nama gehalgod 古英語を見ると、ドイツ語を習ったことがある人は、それとよく似ていることがわかる。発音もいわゆるドイツ語と同じようにローマ字読みに近く、文法も似ている。その理由は、この時代はゲルマン民族のアングロ (Angles) 、サクソン (Saxons) 及びジュ - ト (Jutos) 部族がブリテン島に侵入してきたからだ。   著者はまず英国の歴史を次のように紹介する。紀元前にイギリスのブリテン島にはケルト系のブリトン人 (Britons) がいた。ブリテン島の由来は彼らから来ている。彼らはもともとヨーロッパ各地に分布していたが、民族のせめぎ合いの中で、ブリテン島南部に移り住んでいた。紀元前後、ローマの侵略を受け支配下に置かれる。西暦 449 年に上記のようにゲルマン民族が侵入し、英語の歴史が始まった。 英語はドイツ語やフランス語に比

津田左右吉、「古事記及び日本書紀の研究」

この本は昭和15年に発売禁止になっている。昨年11月に再発行された。著者の津田左右吉については、石渡信一郎の著作の中で触れられいたので気になっていた。戦時中に発禁となったので余計に興味が募る。読み終えてみて、至極真っ当な論述であると思った。なぜ発禁になったのか納得できない。当時、東大総長であった南原繁が前文を書いている。昭和14年に東大法学部に東洋政治思想史の講座が新設された。南原が、早稲田大学にいた津田を講座担当に推薦した。南原が言うように、津田の著作は何ら問題はない。軍部政府が言うような天皇家に不敬などではなく、かえって尊敬の念を抱いていたと書いてある。 古事記と日本書紀を対比させながら、その記述の信憑性を論じている。神代の話は当然として、神武天皇からの8代は作られた話である事は間違いない。この部分を先人たち、例えば新井白石や本居宣長などが、なぜそのような論を展開したかについての説明は説得的である。  私が特に興味を持ったのは、応神天皇から継体天皇までの5代の記述に疑問を呈しているところにある。石渡信一郎はこの点で津田の論にヒントを得たのではないだろうか。実際には2人の間には天皇は存在していないと、彼は主張している。応神と継体は兄弟であり相次いで即位したとしている。なぜこの事実を隠す必要があったのか。それは、その後、即位をめぐる争い(クーデタ)がこの兄弟の直系の間で何度も起こったことを隠す必要があったからだと、石渡信一郎は述べている。  津田のこの本を発禁にしたいきさつを考えてみたい。それは明治維新政府の生い立ちにさかのぼる必要がある。大久保利通らの政府要人が欧米の長い視察に出かけて感じた事は、今後の戦争は国家をあげての総力戦になることだ。そのため、国民をまとめ上げる必要がある。欧米ではその手段としてキリスト教があるのに対して、日本にはそれにあたるものがないと彼らは考えた。そこで、天皇及び神道を祭り上げた。指導者たちは、心から天皇をそんなに崇拝していなかったと言う説がある。伊藤博文などは天皇家から金をむしりとっていたと読んだことがある。ただし1部の右翼や軍人及び国民は心から尊敬していたのであろう。津田も日本書紀の記述は別として、天皇制度そのものに反対しているわけでは無いようである。  ひどいのは軍部の上層部である。明治天皇は、日清戦争、日露戦争には反対であった