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科学者 (たち) の自由な楽園

  「科学者たちの自由な楽園 —栄光の理化学研究所 」 ( 宮田親平著、 文芸春秋、 1983) と「科学者の自由な楽園」 ( 朝永振一郎著、江沢洋編 、岩波文庫、 2000 ) を読ん だ ことがある。どちらも理化学研究所のことが書いてある。著者の朝永振一郎を知らぬ人は少ないだろう。宮田親平については、昔の記憶では文芸春秋   の編集点と思っていた。調べてみると週刊文春の編集長であったそうだ (2018 年死亡 87 才 ) 。東大医学部薬学科卒で薬剤氏を経て文芸春秋社入社、のちにフリーで医学・科学ジャーナリストとなった。   今回のブログの発端は、数日前に偶然に見た、知人、 N 氏の Facebook の投稿にある。理化学研究所での論文捏造、不正発表を行ったとして、   小保方さんの博士称号の剥奪を早稲田大学が行ったことに抗議していた。ここに書こうとして、 Facebook で探すけれども   、彼のその投稿が見つからない 。話題からして、ずいぶん前の投稿かもしれない。それで、読んだときの記憶で書く。詳細は私の思い違いであるかも知れないことを断っておく。彼の主張の主旨は、いくら不正があったにせよ、博士号取り消しはやり過ぎであり、事件の背景を考慮すべきだというものだ。私も彼の意見に同意する。   事件の背景とは   理科学研究所において導入された任期制度と誇大宣伝の弊害である。その制度がどのようなものであるかは詳しいことは私には分らない。ただし、雇用期間が限られ、更新できる研究者はすぐれた研究成果が上げられた者だけだとすると、その制度が研究者に与える心理的 圧迫は 研究に従事したことがある人々には容易に想像できる。ここで、任期の期間の長さが大いに問題である。 5 年や 10 年では、大きな問題、すなわち、成功する確率は小さいけれども、成功した場合の社会あるいは学問への貢献がが大きな課題に取り組む勇気のある人はごく限られる。   短い任期制度は、当時、大学にも導入することが流行した。私が勤めた大学でのことを書く。保険会社の営業員が、 10 年満期の保険の終了について説明し、新たな契約を勧めに来た時のことである。 大学の助教 ( 昔の助手 ) の多くが新しい保険の契約をできないとこぼした。何故か

平均速度について

    5 月の連休の後に、五島の実家に東京から 3 名の来客があった。弟が SNS で知り合った人たちであり、我々は見ず知らずだった。 2 人は御夫婦である。残る 1 人の女性   はこの夫妻の妻の師匠であった。夫がわざわざ休みを取ってついて来たのは、釣りが好きであるからだとは、初体面のあいさつを交した後に知った。  3 泊のうちの何日目かの夕食の時に、夫となる方 (O さん ) が、自分もボートの免許を取りたいと話した。天気が悪く私の船が出せないでいたとき、帰る日の前日の昼過ぎから海が凪いだので、 3 時過ぎにやっと船を出した。私が仕掛けの準備していたときに、 O さんに運転を代わってもらったので ( 船長が乗っておれば許される ) 、船の操縦に興味を持ったのであろう。   まえおきはここまでにしょう。私が電通大に単身赴任していた頃、船の実技免許を、東京のかちどき橋付近で取ったこと、そして、学科試験で引っかけ問題が出たことを話したことが本題の発端である。引っかけ問題とは、次の問である。     問題 :  ある船が行きは時速  10km/ h 、帰りは 20km/ h で   走って戻った。平均の速度は 15km である。これは正しいか否か    数式があるので、以下は ファイルを参照 して下さい。

数学論文投稿 (電子情報通信学会 10回目の拒絶)

電子情報通信学会の基礎境界ソサエティが発行する英論文誌、Transactions on Fundamentals of Electronics, Communications and Computer Sciences への 10回目の投稿も拒絶されました。受け付け拒否であり、査読に回してもらえないという悲しい結果です。 論文受け付けを拒否する理由は、私の投稿が編集委員会が要求する条件を満足しないためだとの指摘です。最初の拒否理由は、回答の要約を書いていないというものだ。回答の要約を要求する学会誌を聞いたことがありません。回答要約を提出したところ、次の拒否理由として、専門家に読んでもらって、共著者にするか謝辞にかけとの指示を満たしていないことをあげた。私は、2人の専門家に読んでもらったと書いていた。論文委員会は、その結果が改訂論文原稿のどこに反映されてかが判明できないこと、実名が上がっていないことを理由にあげた。2人の意見とも、大したことではなかった。1人(匿名:Elsevier の論文誌、Functional Analysis のEditor)、は主に英語の使い方を直してくれた。1人は参考文献に上げている著者(だから実名はわかる)であり、フーリエ逆変換も最初から広義積分で定義するのが良いとの指摘であった。このことは、今回の回答書に書いてあった。それにしても、専門家に一度読んでもらえとは、投稿者を馬鹿にしている。査読者がバリバリの専門家であり、私は彼らの意見・指摘に応えている。反論もしている。学問のまっとうな討論を続けてきた。   編集委員会とのやりとり と投稿に添えた 著者の回答 をGoogle Drive に上げています。興味がある方はクリックして見てください。このやりとりの中で、この論文誌への投稿はこれで最後にするので査読へ回してくれと頼んでいたので、この約束を守ることにする(査読には回してくれなかったけれども)。電子情報通信学会の通信ソサエティの英語論文誌に投稿するつもりで、知人に原稿を読んでもらっているところです。

会長からのあいさつ

 今年度の日の里1丁目自治町内会の会長を務めることになりました。 就任の挨拶 を書いてみました。  

卑弥呼と倭の五王

 下記に入ってください。 卑弥呼と倭の五王   https://drive.google.com/file/d/1ucnHwkhQNW7Epeo5eQmxr8bElheBXsMF/view?usp=sharing

新聞小説「人よ、花よ、」(今村翔吾)

  4 月になって朝刊を開く楽しみ が 減った。連載小説 が終わっ たからである。読み 始め た のは、 連載途中から では あるが、早い 回 のこと だろ う。 南北朝時代の南朝 における 楠木党にまつわる歴史小説である。主人 公は、楠木 正成の 子である 正行だ。中世の日本史を勉強した ことが なかっ た ので、特に、北朝と南朝 のどちらが 天皇 家として 正統 で あるかを含めて、 興味が あった 。 人物描写 が 上手いので 、著者の 今村 翔 吾が気になっていた。 これまで、 知ら なかった 名前 である 。 途中で新聞 と TV で ニュース になって、顔 も 見る こと できた。そこでは、佐賀 ( 駅 ? ) にある、本屋 が 閉じる こと になったのを 受 けて、 今村 が 経営に 乗り出すことが紹介された。彼は 他にももう 1 店舗の本屋 を 営ん で いるそうだ。 「 今村」 姓は佐賀に多い と 聞く 。 著者 の 経歴はたいへん面白い 。どうり で 、話の展開の仕方 がうまいはず だ 。 北方 謙三 に、 小説を書く よう にすすめられ たとある。 北方謙三の文章に も 似ていると思う。   著者は、歴史小説家 としての 司馬遼太郎を模範 として目指して いるよう だ 。司馬遼太郎の歴史小説へ の 批判、疑問を呈する 人々 ( 私も そうだ ) のことに言及 し つつ も 、 司馬 遼太郎 を高く評価している。   私としては、 司馬 が 歴史を 話題 とした 小説 を書く とき 、 事実を確認する努力を十分せず に、あるいは、自分が感じたように、小説に書いてしまって いるように思う。この点 で は、 松本 清張の「 小説 帝銀事件 」の 書きぶり とは 大きく異なっ ている。 清張 はこの本を、 ノンフィクションとしたいのに 、 GHQ がらみの証拠の裏を取れないので、 涙をのんで「小説 」とした こと は 、 NHK の番組 で 観 た。   ここで脱線 して、 下山事件についての別の NHK 番組 について書く。 当時 の国鉄総裁である下山 が 汽車にひかれた状態で発見された。自殺か 他殺 か、 他殺 と し たら 唯 がやった か。 清張も この 事件 について「 黒い 霧 」とし

言語の本質 -ことばはどう生まれ、進化したのか -   (今井むつみ、秋田喜美、中公新書)

  書評につられて買った。「本質」という単語が使われているのも気になったからである。著者の今井 ( 慶応大環境情報学部教授 )  は、認知科学、言語心理学、発達心理学、秋田  ( 名大人文学研究科准教授 ) は、認知・心理言語学が専門である。この本は、認知科学での未解決の大きな問題である記号接地問題   (Symbol grounding problem) を解決したというふれ込みである。   記号接地問題とは何であろうか。   例えば、メロンということばが何を対象としているかを知っているとする。ここで、知っているとは、見て、さわって、食べた身体体験を前提としている。この体験なしに、単にメロンは、丸く、実が甘くてうまい果物   であると、ことば ( 記号 ) で定義したところで、本当に知っているとは言えない。定義に当てはまる同じような果物があるかも知れないからであるし、メロンの本質をすべて定義するのは困難であるからだ。   記号接地問題は人工知能 (AI: artificial intelligence) でも問題   となっているそうだ。 AI には身体的体験を学習する機能が備っていないので、メロンという記号 ( ことば ) を他の記号によって、定義するのみである。辞書がそうである。時には写真やイラストも用いて説明しているものの、身体的体験が伴わないので、本当に知っている ( ことばの意味するほとんどすべてを理解 ) とは言えないのではないか。何かについて知っている ( 理解 ) と言う人でも、質問をつきつけられると答えにつまることが多い。頭の中の理解が地に足が着いていないとこうなる。 AI は記号操作のみを行うであるから、自分の出した結果が、嘘か本当かを自分で判断できないことが弱点である。   記号接地問題の例が示されている。分数の理解として、 1/2 と 1/3  ではどちらが大きいかという問題について、小学 5 年生で正解率は 49.7%  であった。同様に 0.5 と 1/3  については、正解率は 42.3% である。中学生に不等式      ( 1)      99 /100 <100 <101/100       (2)     99 /100 <10