経済学 – 私の体験と読書 –

 

貧乏な人とそうでない人がいることは、小学校に入ってすぐに分かった。着ている服でもそれが分かるので、身体検査でパンツ1枚になるのが嫌だった。先生や裕福な家の一部の恵まれた子供達はきれいな下着をつけている。その他にも、彼らが習字か何かの習い事で、そろって町へ出かけていくのを、牛の散歩をさせながら見ていたことを憶えている。ただし、私よりも恵まれていない家の子供がいることは知っていた。例えば、中学校で弁当を持たせてもらえないで、昼食時には裏山へ登り、皆が食事を済ませてから教室に戻っていた。家が近くの生徒は昼飯を家で食べに出るので、このことはさほど目立たなかったようだ。さらには、父親の夜のイカ釣り漁に連れて行かれ、授業中に眠たくなっている同級生がいたと、本人から後で聞かされた。

 

中学校を卒業して高校 ( 当時、島には高校がなかった) へ行けたのは、卒業生100名弱 (昭和20年生まれなので少ない) のうち、10人ぐらいだった。内訳では、工業高校、商業高校、水産学校などが多く、普通高校は少なかった。長崎市の県立普通高校に行ったのは、私1人だけである。私も工業高校に行く予定であったものの、願書を出す直前になって変わった。校長 (木場) 先生が父親に勧めてくれたおかげである。校長先生がこのように助言してくれたのは、下五島地区で行われた共通学力試験の結果からであろう。ちなみに、前の学年の卒業生は250名ぐらいいた。長崎の県立普通高校を5名受けたが、全員落ちていた。我々の学年は人数が少なかったので、主要な科目、英語、数学、理科、社会は、たまたま良い先生方がそろっていた ( 国語 はそうでもなかった)。さらには、大学にも行かせてもらった。当時の国立大学の授業料は安く、私が受けていた特別奨学金の1月分で足りた。家庭教師などのアルバイト代とで、家からの仕送りはそれほど必要なかった。私は運が良かった。

 

高校、大学に進むにつれて、政治や経済について知識がたまる。そうは言っても、若いので、文芸文学、哲学、心理学などへの興味が強い。大学では、当時、流行っていた、大江健三郎や安部公房などの小説、サルトルやカミュなどの実存主義にはまっていた。経済学について本格的に興味を持ったのは、大学を出てからである。大学時代に最初に読んだものは、「共産党宣言」である。これのみが今でも印象に残っている。扇動(アジテーション)を目的にしているので、文章自体に惹きつける魅力があったのだろう。今回、文末に示す読書リストを作るために本棚を探したがみつからなかった。その次は、エンゲルスの「空想より科学へ」であるようだ。1965.7.5、初夏、生協で買ったと書き込んである。マルクスの「賃労働と資本」は1965, 夏、神田で買っている。前者は、第34刷、後者は第18刷と版を重ねているので、売れていたことが分かる。これらは、今では買ったことさえ忘れていた。河上肇「貧乏物語」は、父親の残した本棚の中で最近見つけた。私が昔、読んだかどうかは定かでない。

 

大学の教養科目として、マルクス経済学の講義を選択したものの、剰余価値が労働者から搾取されたものであること、労働者が働く喜びを感じられない、疎外という概念の理解しか残っていない。講義を担当した先生の熱意、あるいは、力不足が原因かもしれない。他の科目、例えば地学の講義では、先生の熱意が伝わり、大学ならでの講義もあった。いずれにせよ、社会主義、共産主義に惹かれるのは、当時の学生にとっては、麻疹同様、ごく当たり前のことであった。ただし、当時の共産党については何か違和感を持っていたことも事実である。大学の就職担当の教授と面談のおり、「資本主義で動いている普通の会社に就職するには抵抗がある」と言ったら、「君は会社に行くべきでないと」言われた。大学院進学は最初から考えられず、また、就職先の選択権利は、ほぼ成績順であったようなので、40名中25番の私には、それほど選択肢はなかった。仕方なく会社(日本電気)に就職した。数年経って会社を辞めて中学教師になろうと考えたのは、資本主義的な働き方をしたくなかったことも一因だと思う。先生になる希望は、その後、偶然、運良くかなった。

 

私が大学を卒業したのは、昭和43年(1968)である。読書リストを見ると経済学の本は、会社に入ってから本格的に読み始めたことが分かる。経済学の他には、吉本隆明などの評論や、岸田秀などの心理学の本を読んだ。ロビンソンの「経済学の考え方」は発行年度は古いものの後で買ったものだろう。毛沢東の「実践論・矛盾論」を買ったのは、昭和46年(1971)である。この年には、毛沢東選集 第13巻も買っている。今見ると発行したのは三一書房とある。これは私がブログに書いた、古代史研究者の石渡信一郎の本を出した会社である。毛沢東の本はこれ以外に何冊か買っている。中国共産党を立ち上げながら、実践を通して弁証法的理論を構築していくのに興味を持った。特に、ゲリラ戦法を駆使して、田舎が都市を包囲するという考え方は面白いと思った。ダイエーの創始者、中内功もこの考え方に共鳴していたと思う。毛沢東の老後の活動、文化大革命はなんだったか分からない。おきまりの党内権力闘争だったのか。九大の研究室の全員で、私の家の自宅の庭で年2回のBBQをしてたおり、中国からの留学生が私の本棚の中に、毛沢東の本を見つけニヤリと笑ったのが印象に残っている。

 

保土ヶ谷にあった会社の寮には、4年間居た。6畳間に2人で居り(相棒は九大の同級生)、私は大学時代の下宿から本棚とその本をそのまま持ち込んでいた。ある日、気が合っていた友人が私に言った。寮長(自衛官上がりの気の良い初老の男で妻と住み込み)が「赤岩はアカではないのかと」訊いてきたそうだ。寮長は私の本棚を覗いたのかもしれない。

 

伊東光晴の本は、ケインズ経済学について書いたものが多い。彼の文章はリズム感があり、読みやすい。今でも覚えている一文がある。「イカに例えれば、資本主義は黒いスミを、マルクス主義は赤いスミを吐くのに対して、ケインズ主義はピンク色のスミを吐く」。

資本主義で問題となる不況を、政府が財政支出をして有効需要を作り出すことで、対処できるという、資本主義の改良版の考え方である。これより、社会主義・共産主義は必要でなくなるので少しは安堵する。彼の本で最後に読んだものは、「アベノミクス批判」である。

 

ガルブレイスの本では「豊かな社会」をえている。経済成長の結果、豊かになったはずの米国で、貧しさがっていることが出発点だったと認識している。その後、大企業が引き起こす問題を扱った本を精力的に書いている。彼の文章も大わかりやすい。「不確実世代の時代」は世界的なベストセラーになったようだ。順調に成長する資本主義にも、よく察すると問題が現れ始めるっていると指摘する。日本の経済は大きく発展し、1億総中流になったと言われた。我々の世代に塊の世代がこの成果を身をもって享受した。英国では、「ゆりかごから墓場まで」の福祉政策が行われた。日本は、全国民が加入する健康保険、年金制度が始まり、世界で最も成功した社会主義政策国と称された。ただし、公害問題などの弊害が起きた。その後、景の落ち込みにするケインズ政策が有効でなくなったという。その理由として、先進国では物質的には十分豊かになったので、公共事業などを通してつぎ込んだ金が、大衆に消費されなくなったという説や、資本がグローバル化されて、資金が政府の制御から外れたという説がある。

 

その後に、世の中に現れたのは、新自由主義と呼ばれる政策である。ケインズ政策の反動として、国家の介入を否定し、何事も市場に任せようとする。レーガン、サッチャー、中曽根などの政府指導者が、構造改革、規制撤廃と称して、国営事業の民営化、福祉の切り下げ、富裕層や企業への減税が行われた。伊東光晴によると、国鉄や電電公社の民営化は、組合活動を弱体化させる目的も大きかったという。1991年にソ連が解体すると、労働者に対する配慮に関して、当面の競争相手がいなくなった。米国では、リストラという首切りが始まり、日本でも働き方改革と称して、非正規労働が法律改正で可能となり、その者の割合が増えた。また、先進国の経済成長が鈍くなると、資本は少しでも利潤をあげようとして、中国などの発展途上国に投下された(グロバリジェーション)。製造業は日本も含めて、弱体化される。ライッシュは、「暴走する資本主義」の中で、次のように述べている。経済のグローバル化は、技術の陳腐化、通信と運輸の発達で可能になったとしている。国をまたいでの資本の移動の規制が少なくなったことも挙げられよう。その結果として、従来の製造企業の衰退、中間層の没落、そして民主主義の後退が起こった。別の要因として、企業の経営者と資本家の分離も考えられる。資本主義の性質から、利潤を常に最大にあげようとする。したがって、労働者の取り分を減らすことが最もてっとり早い。経営者や上層部の労働者にどれほど破格の報酬を与えても、たかが知れている。そこで大きな賃金格差が生じる。労働分配率は下がり続けている。労働組合も加入率が減り、その影響力は下がってきた。さらに、正規の労働者だけを守り、差別を受けている非正規被雇用者を助けてはいない。昔、力があった日教組の動きなど最近は聞いたことがない。先生たちの働く環境が悪くなる一方だというのに。

 

皮肉なことに、この暴れまわる資本の中には、労働者の年金基金、有名なものとして、カルフォニア州職員退職年金基金(カルパース)もある。資本の効率と関係するのは、利子率である。よく知られるように、利子率はゼロ付近になっている。このことを、水野和夫は、「資本主義の死」と呼んでいる。資本の行き場がみつからないことになる。残るはアフリカなどの低開発である。ここには、中国が積極的に介入している。

 

所得格差の現状をデータで明らかにしたのは、ピケティの「21世紀の資本」である。彼は格差是正のために、資産課税を提唱している。ノーベル経済学賞をとり宇沢弘文の米国での弟子、スティグリッツは、労働者の賃上げ、富裕層や大企業への課税強化、独占の禁止などを提言している。トッドは「デモクラシー以後」で、国際間では保護主義を認めた上で、これを協調的に行うことを提案している。これまでとは全く異なる処方箋を出しているのは、ボズナーとワイルの「ラディカルマーケット」である。これは、英語の原書を買ったのでまだ読み終えていない。ざっと見たところ、今の資本主義がうまく働いていないのは、資本の自由度が中途半端だからという。取引されるすべてのものは、例えば土地建物であれ、会社であれ、現在の資産価格よりも高い金額で買うという人が現れたら売らなければならない制度にするという。すべてがオークションにかかることになる。これにより、すべての資産が有効に活用されると主張している。資本主義を極限まで過激にしたものだ。この過激な提案がどれほど実行可能かは私には分からない。

 

経済学で重要な単語は貧乏である。「貧乏物語」、「豊かな社会」、「豊かな社会の貧しさ」はこの単語が、題名にもろに現れている。ロビンソンの「経済学」も「資本論」も貧しい人々が念頭にある。「ラジカルマーケット」の出だしは、リオデジャネイロの貧民街と近くにある高級住宅街との描写から始まる。あえて貧乏を望むものはおるまい。この状態になったら、誰しも脱出したいと思うだろう。暴力団員になるのもその動機として充分考えられる。裕福な若者が暴力団に入る事はないだろうから。

 

暴力団における職業訓練は、仕事を通して自分で自分を訓練する、OJT(on the job training) の最たるものだと、会社にいたときの研修できかされた。誰も手取り足取りで教える事は無い。自分自身の力で成長しなければならない。普通の会社や公務員でよくある、上司へのごますりや忖度では出世できない仕組みになっている

 

話を元に戻す。現在の成熟した社会で、貧乏から脱出する機会は我々が享受した経済成長の時代よりずっと減っている。貧乏脱出の1つの方法は高等教育である。米国では大学の授業料が有名私立大で年間450万円位、カリフォルニア州立大学でも200万円弱かかると、日系(元は熊本出身)の中年過ぎのスチュワーデスに、25年位前、聞かされた。国際会議で発表するため、アメリカに学生と助手を連れて向かっている飛行機の中でのことである。彼女は息子をコロンビア大学にやっており、自分がこの年まで働いているのは、そのためだと言った。このことをよく覚えているのは、飛行機が到着する頃に、彼女が1本のワインをこっそり持ってきて、ホテルで飲むようにとくれたからである。ファーストクラスで提供するものだと彼女は言った。同行している学生が彼女の息子と同じ位の年齢であり、彼が英語で論文を発表することを喜んでいたからだろう。

 

私が入学した高校は創立されたばかりであった。3年のときには進学クラスが3組あり、その中から2人(当然現役)が東大に行った。現在では、地方の公立学校から東大に入るのは至難の業である。有名私立高校の独壇場である。これらの高校(中高一環が多い)に通わせるには、親の経済力が必要である。東大の学生の親の平均年収(中央値?)が1000万円位だと言うのはうなずける。ところで、私が知り合った韓国の大学の先生は、みんな流暢な英語をしゃべった。彼らは米国の大学院で学び、博士号をとっていたからだ。そのまま米国で働くと、当時の韓国にいるときの10倍の年収を得ることができた。これが彼らの強い動機となっただろう。当時の日本では、これが2倍までもならなかったはずだ。日本は経済的階層が平均化され階層間移動が容易だと言われていた。しかし、事実は異なり、英国よりずっと低いと言う説を、リストに挙げた本のどれかで読んだことがある

 

貧乏であるのは、運がほとんど決めているだろう。どの親の子供に生まれるかは、運そのものである。同様に、生まれる国も選択できない。離婚した母子家庭も貧乏になることが多いようだ。私に言わせるとこれも運だと思う。なぜなら、結ばれて夫婦になるときの組み合わせは、いくら結婚が本人の自由意志であるとは言え、本人たちがすべて相手を理解して決断したものではないからだ。結婚相手の全てを知り尽くしてから一緒になるとしたら、誰も結婚できないだろう。そうなれば人類の絶滅である。他の動物はみんな喜ぶに違いない。

 

運をどのように捉えるかによって、政策が異なる。自己責任を強調すると運が悪い人は見放される。運がよかった人は、自分の力で裕福になったと思っている節がある。IT企業などで成功した人たちはその才覚があっただろう。しかし、たくさんの人々へのサービスの代価を、必要以上に受け取り、いわば搾取する資本主義のルールをうまく使っていると言わざるをえない。慶応大学の教授であった竹中平蔵は、内閣に入って、雇用の規制緩和の旗を振った。そして、今は、その恩恵を受ける人材派遣会社のトップにおさまっている。見事な才覚である。彼らが推奨している、最低収入給付金制度(basic income)は、騙されないように気をつけなければならない。

 

生活保護費は貧乏を救う制度である。日本では、これに相当する人々の内、実際に受給している人の割合は20%位である。これに対して北欧の国々では80%に上る。この差は制度の運用の違いであろう。日本では自己責任、自助が社会的圧力となっている。最近、50歳代の母親と30歳代の息子が餓死していたと言うニュースがあった。カツオ節が、1個残っていただけという。北欧の国では、会社をクビになっても保護の受け皿で職業訓練の機会が与えられ、貧乏から脱出しやすくなっている。これは産業構造の素早い転換にも役立っている。日本の生活保護は、経済的自立を助ける仕組みに欠けている。

 

大きな格差は、同じ国の中で考えると、確かに問題である。しかし、中国などの成長中の国を含めて、世界全体で考えるとどうであろうか。先進国の中間層の所得の減少は、成長中の国の富裕層、中間層の所得の増加で十分補われているのではないだろうか。先進国の所得の全体は下げて、かつ、国内の格差を極力少なくすれば、人類全体で考えて、格差を減らし、あるいは、運が悪かった人を助けることになるだろうと思う。

 

つい最近読んだ、斎藤孝平の「人新世の資本論」は強烈な印象である。この本については、別のブログに書くつもりである。

 

追記:私はキーボードでの文字入力が下手である。これを楽にする方法がないか探した。その結果、いつも使っている、Ipadの音声入力がとても優れていることが分かった。このブログの途中で使ってみて、その便利さを確認した。今後、さらにブログを書きまくる予定だ。

 

読書一覧

 

K.マルクス、「賃労働と資本:賃金・格及び利潤」1960 52

F.エンゲルス、「偶像より科学へ」1965年、第34

J.ロビンソン、「経済学の考え方」1966

伊東光晴、説「変貌する資本主義」1967

佐藤昇 編、「社会主義の新展開」1968

 

毛沢東、「実論・矛盾論」1970、第18

伊東光晴、「保守と革新の日本的構造」1970

J.ガルブレイス、「豊かな社会」1970

毛沢東、「毛沢東選集」1971

伊東光晴、「現代の資本主義」1971

J.ガルブレイス、「経済学・平和・人物論」1972

伊東光晴、「生活の中の経済学」1972

伊東光晴、「現代経済を考える」1973

三浦つとむ、「マルクス主義と情報化社会」1973

J.ストレイチ、「なぜ社会主義を選ぶか」1974

J.ガルブレイス、「新しい業国家」1975

J.コルコ、「世界資本主義の危機」1975

伊東光晴、佐藤金三郎、「経済学のすすめ」1975

J.ガルブレイス、「経済学と公共目的」1975

宇沢弘文、「近代経済学の再討」1977

J.ガルブレイス、「不確実性の時代」1978

 

J.ガルブレイス、「ガルブレイス世界をむ」1984

J.ガルブレイス、「良い世の中」1988

J.ガルブレイス、「経済学の歴史」1988

宇沢弘文、「経済学の考え方」1989

宇沢弘文、「豊かな社会の貧しさ」1989

伊東光晴、「技術革命時代の日本」1989

 

佐和隆光、「これからの経済学」1991

佐和隆光、「経済学とは何だろうか」1992

宮崎義一、「複合不況:ポストバブルの方箋を求めて」1992

佐和隆光、「尊なき大国」1992

岩井克人、「資本主義を語る」1994

佐和隆光、「平成不況の政治経済学」1994

森嶋通夫、「思想としての近代経済学」1994

吉本隆明、「超資本主義」1995

佐和隆光、「資本主義の再定義」1996

佐和隆光、「日本の難問」1997

佐和隆光、「漂流する資本主義」1999

K.ウォルフレン、「怒れ日本の中流階級」1999

P.クルーグマン、「グローバル経済を動かす愚かな人々」1999

J.スティグリッツ、「世界を不幸にしたグローバリズムの正体

2002
J.スティグリッツ、「勝者の代償」2002

佐和隆光、「日本の構造改革」2003

伊東光晴、「現代に生きるケインズ」2006

小野善康、「不況のメカニズム」2007

R.ライッシュ、「暴走する資本主義」2008

E.トッド、「デモクラシー以後」2009

三田誠広、「マルクスの逆襲」2009

 

J.スティグリッツ、「フリーフォール」2010

野口悠紀雄、「経済危機のルーツ」2010

藻谷浩介、「デフレの正体」2010

水野和夫、「終わりなき危機」2011

八代尚宏、「新自由主義の復権」2011

C.ラインハート、K.ロゴフ、「国家は破綻する」2011

小野善康、「成熟社会の経済学」2012

小熊英二、「社会をえるには」2012

 

伊東光晴、「アベノミクス批判」2014

池上彰、佐藤優、「希望の資本論」2015

金子勝、「資本主義の克服」2015

井出英策、「経済の時代の終焉」2015

宇沢弘文、「人間のための経済」現代思想2015, vol. 43-4

E. Posner and E.Weyl,”Radical Market”,2018

井出英策、「幸福の増税論」2018

佐々木実、「資本主義とった男:宇沢文と経済学の世界」2019

 

 


コメント

  1. 赤岩先生、ありがとうございます。また読ませて頂きました。貴父繁三郎さんも若い頃、共産主義の本を読んでいて家に特高が来たと聞いています。その影響もあるのでしょうか?確かに資本主義は弱肉強食社会だと思います。しかし努力によって貧乏から脱却できる場は与えられている気もします。だけど餓死者が出る日本社会は否定すべきですね。やはり学歴、学閥がモノ言う日本資本主義社会でしょうか?日本全体が左傾化していると聞きますが、一部の日本人はカヤの外扱いで経済的犠牲を強いられているのですね?それでも貧富の差は価値観の問題かも知れません。住む家があって飢えに苦しまない国家体制が有れば少なくとも国民が皆幸せで嬉しい事に変わりないですね

    返信削除

コメントを投稿

このブログの人気の投稿

数学論文投稿 (電子情報通信学会 9度目の拒絶と10回目の投稿)

日本数学会への論文投稿(続き)

数学論文投稿(電子情報通信学会 8度目の拒絶と9度目の投稿)