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私の英語体験

  もの心ついた頃に不思議に感じた言葉の一つに「デッコ ( ウ ) 」がある。田舎の方言としては変だと思ったけど、皆がよく使った。例えば、「そんなにわからないことを言うなら、船からデッコするぞ」と大人に脅かされた。その他には、「ゴスタン」、「ゴーヘイ」、「アカを汲み出せ」などがあった。「デッコ」については、「アンカ デッコ」などと言っていたので、中学か高校になって、「 Anchor Lets’ go 」 のことだと分かった。「デッコ」は Lets’ go だったのである。「ゴスタン」は  Go stern, 「ゴーヘイ」は、 Go ahead, 、「アカ」は Aqua のようだ。その他にも、シスターン(生け簀)、サブタ(いけすの蓋)、スカッパ(いけすの底蓋)などもある。   上に示したように、船に関する英語が多い。私が思うに、船乗りたちが、海員学校や海軍で覚えた英語を田舎で(たぶん自慢気に)使ったのだろう。海軍は英国から(陸軍は最初はフランス、のちにドイツ)から習ったので、英語が多いのだろう。(陸軍にいた叔父はベット(ドイツ語)と発音していた)。戦争中は敵性語として英語は使用禁止のはずだった。海軍では、和訳していただろうか。そうとは思えない。   田舎での英語の発音は、今、考えてみると本来の発音に近いようだ。私の頃の中学生であれば、「ゴーヘイ」ではなく「ゴー アヘッド」と発音したと思う。私の死んだ母親(英語は習ったことがない)が喋った言葉に、「オットー通信」というものがあった。若いときに実家に帰っていた時、家の中のスピーカーから、突然、役場からの連絡放送が流れたのである。私がびっくりすると、最近始まったものだと母親が教えてくれた。その言葉は、今はやりの何かの愛称かと思った。知り合いの家を訪ねて行くとき、玄関先で「オットカナー」(居りますか)と言っていたので、これに語呂合わせしたものかと思った。その後、これは、 Off-talk 通信、すなわち電話が使われていないときにその回線を使って放送するものだと分かった。発音「オットー」はかなりいい線を行っている。母親はその他にも、「フェーリー」と発音した。 Ferry であるから、 r を2回発音している。これに気がついたのは、会社にいた頃、英語の論文の添削を米国人に受けて

日本数学会への論文投稿

以前のブログで書いた数学に関する議論を、論文、"The Fourier Transform of Not Absolutely Integrable Functions" としてまとめ、今日、投稿しました。 数学会に投稿するのは初めてなので、どのような評価を受けるか楽しみです。興味がある方は読んでみてください。 論文原稿

牛の散歩

牛を散歩させたことがある人は少ないだろう。私は小学校5, 6年生のときに学校から帰ってくると、ほぼ毎日、行った。散歩と言っても、鼻輪につけた綱を持って、道端の草を喰せるだけだ。当時は、近所の家はたいていは半農半漁で生活しており、牛を飼っていた。田畑の農耕作業にスキを引かせるためだ。また、牛舎でわらと牛糞で良い堆肥ができた。子供でも扱えるのは、牛がメスで比較的大人しいからである。今、思い出した。牛を右に向かわせるときには、「オシヨ」と言いながら綱を引き、左に向けるときには、「トト」と言って綱で体を叩いた(最近のことはすぐ忘れるのに、昔のことはこのように思い出せるから不思議である)。 牛のことを書こうと思ったのは、何年か前に、若いときに牛に接触したことがある人はインフルエンザにかかりにくいという記事を読んだことがあったからである。牛のウイルスに感染して抗体ができているからだろう。今のコロナウイルスでこのことを思い出した。その当時、私は何かの講演の中で、「私の人生は幸運であった」、その訳の一項目として牛の散歩とウイルスについて話したこともあった。その後、思い至ったのは、牛のおかげはこれだけではなかったことだ。 庭先の牛舎から連れ出し、数百メートルぐらいの道を往復する。牛は道端の草をすぐに食べ始める。草は少ないのに、牛のことだからゆっくり丁寧に食べる。私は急がせる。先に行けば広い草むらがあるからだ。草が多いので、綱を木にくくりつければ周りの草を食べる間、私は牛を放っておける。おおむけに寝転がって空を眺めるのは気持ち良い。ときには、学校で習っておもしろいと思ったことや、理解がすっきりしなかったことを思い出して考えることができた。小学校の時の成績がそこそこ良かったのは、この習慣のおかげかもしれない。さらには、一人でぼんやり過ごす楽しみを会得したようだ。 牛のおかげをもう一つあげよう。牛のようにいくら急かしたところで、どうにもならないことがあることを、子供の頃にすでに知ったことである。何度も同じ道を通るのに、牛は学習しないで先へ急ぐことをしてくれなかった。それで待つことに耐えられる力が少しはついたかもしれない。生まれつきせっかちだったので、牛がいなかったら今頃どうなっていただろう。 年老いて働きが弱くなると、馬喰が仔牛を連れて来て、代わりに年老いた牛は引き取られる

領土交渉史—孫崎享に対する佐藤優の非難

孫崎享の本を続けて読むついでに、wikipediaで著者を調べて見たところ、佐藤が孫崎を非難しているとの記述があった。文献が示されていたので、ネットで調べて買った。その文献[1]とは、「(佐藤優の視点)尖閣諸島、北方領土をめぐる孫崎享氏の奇妙な見解」(「伝統と革新」、10号、特集「領土・国防・安保—日本は侵されている」、たちばな出版、平成25年1月)である。 簡単のため、ここでは、北方領土問題のみに限る。今でも続いている、2島か4島かの議論である。 佐藤は孫崎の書いた次の部分(私の要約)「サンフランシスコ講和条約で、日本国は千島列島に対するすべての権利、請求権を放棄した。当時の吉田首相は千島列島に択捉、国後の両島が含まれると、調印前に認めている。西村条約局長も調印後の衆議院国会答弁で、両島が千島列島に含まれると答弁している。したがって、重光外相が日ソ国交回復を成功させるために、両島の放棄をやむをえないと判断したことは妥当であった。しかし、米国のダレス国務長官が重光外相に圧力をかけ、もし、日本が択捉、国後をソ連に要求しないのなら、沖縄を米国の領土とする脅した」を非難している。佐藤の見解は、「日本政府は鳩山首相も含めて、4島返還を交渉の最初からソ連に求めていた。しかし、重光外相は政府の意向を無視して、2島返還で手を打とうとした。これはダレスが重光外相を脅す前のことであった」という点である。ここに書いた限りでは、佐藤のいうとおりである。それは、松本俊一著(佐藤優解説)「日ソ国交回復秘録、増補北方領土交渉の真実」、朝日新聞出版(2019年3月)[2]に詳しく書かれている。 私には、佐藤の言い分は、全体の流れを無視して、細部の間違いを非難しているように思える。当時の歴史の流れとして、(米ソ)冷戦がすでに始まっていたことを頭に置く必要がある。日本とソ連の間に領土紛争の種を残しておくことは、米国の利益になるから、日ソ交渉の始まる前から、日本を牽制していた(文献「2」p. 129)。 ダレスが重光を、直接、脅したのはダメ押しであったとみられる。ダレスが沖縄を返さないと言ったことが、世間に知れて政府は対応に困った。しかし、米国の真意は、「ソ連との交渉で日本が強く出れるように後押しする、善意の表れとの了解で日本の世論が治ったと書いてある([2], p. 130)。私には米国の

庭のカボチャ

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庭の片隅に 10m 四方ぐらいの野菜畑がある。 31 年前に九州に来て、古家を買ったのは、敷地の広さ (142 坪 ) と、庭木及びこの畑が気に入ったからである。冬には、大根とネギ、夏にはキュウリとトマトを作っている。キュウリの最盛期の頃、カボチャらしき苗が数本、堆肥場所の付近に出ているのに気づいていた。腐ったカボチャの塊を種ごと捨てていたものから、発芽したらしい。それが、キュウリの終わり頃( 8 月中、下旬)には写真のようになってしまった。写真では、よくわからないけど、自然薯用の長竿にキュウリと一緒に登ったり、庭木の上に這い上がったり、 2m 弱の段差で下にある東隣りの敷地に垂れさがったり、同じくらいの高さの南側の家の塀によじ登っている。 台風 9 号に続いた 10 号が去った今朝の写真も載せている。葉っぱが風にあおられてカボチャの実が見えるようになった。自然薯用の長竿は、 9 号のときにすでに折れていた。これまで、 2 個収穫しており、残りを見たところ 10 個は残っている。庭木の枝の上には、 4 個ほどある。 9 月の終わりごろまでには、すべて成熟してほしい。このころには、いつも植木屋さんが庭木の剪定に来てくれるので。

「朝鮮戦争の正体」(孫崎 享)を読んで

この戦争については、 D. ハルバースタムの大著、「朝鮮戦争、 The coldest war 」 ( 文芸春秋 009) を読んでいたので、そこそこ分かっていたつもりであった。孫崎のこの本は、今年の 7 月に出たばかりである。著者の本を立て続けに読んだ後だったので、出てすぐに買った。ハルバースタムの本は、主に米国の内実を詳細に書いている。特に、マッカーサーの、能力、資質と性格への疑問が呈されていることが、印象に残っている。孫崎のこの本では、次のようなことが明らかにされている。 1. 当時の指導者、金日成、スターリン、トルーマン、毛沢東が互いの意思を読み間違っていたことから、この悲劇的な戦争は始まった(その事実は実に興味深い。こんなことで戦争が始まるとは)。終わってみると開戦開始時の状態に戻っただけであった。 2. 日本は、この戦争の特需で経済的にうるおった。しかし、政治的には、その後の惡き前例となることを始めた。日本は公的に参戦している。すなわち、海上保安庁が機雷掃海隊を派遣した( 22 名の死者が出た)。しかし、当時の吉田茂首相は、海上保安庁長官に対して、一切を秘密にするようにと命じている。本来ならば、国会で審議して、国民に知らせるべきであった。(孫崎の他の本「日本戦後史の正体」)では、吉田茂は対米追随の筆頭に挙げられている。国民向けには、米国に屈しない態度を見せてはいたものの、それが嘘であったことを事実をいくつもあげて示している)。 自衛隊の前身である警察予備隊は、在日米軍が朝鮮半島に出てのちの、留守役の目的で設立された(半島に連れ出す意図もあったそうだ)。これは、政令(法律に基づかない)により創設された。これらの動きを国民に知られないように、報道関係者の解雇(いわゆるレッドパージ)が行われた。朝日: 72 、毎日: 49 、読売: 34 、日経: 10 、東京: 8 、 NHK:104 、時事通信: 16 、共同通信: 33 である。 3. 日本(朝鮮総督府)は敗戦すぐに、朝鮮にいる日本人の安全確保のためもあって、朝鮮臨時政府「朝鮮人民共和国」を作った。これは、首席:李承晩、副主席:呂運享、国務経理:許憲、内務部長:金力、以下部長9名などの人選であり、活動が始まっていた。しかし、上陸

ふくれ餅

故郷の五島(奈留島)では、お盆や祝い事のとき、ふくれ餅を作る。小麦粉を練ってイースト菌で膨らませ、中にアンコを入れて、カンナの葉などを敷いて、蒸して作る。蒸し器の中でふくれて、お互い押し合いするので、面白い形になる。ふくれ餅の型枠があると思い、どこに売っているかと聞いた男がいたとの笑い話がある。私の母親の作るふくれ餅は評判が良く、大きなざるに盛られたのを、お盆に集まってくる大勢のいとこたちと、皆、思い思いにとって食べたことが懐かしい。 私が生まれたのは、昭和 20 年 9 月 9 日(旧暦)である。この日は、奈留神社のお祭りの日である。朝から、母親が産気付いたので、父の妹が代わりにふくれ餅を作ったそうだ。それが失敗作で、ふくれずに固い団子状であったと、今でも姉たちの語りぐさになっている。ふくれ餅を作るには、そこそこのコツがあるみたいで、いつも、うまくいくとは、限らない。島の中学の同級生の女たちに聞いても、自分で作れるものは少ないようだ。父と母が相次いで亡くなってから、 14 年になろうとしている。私の妻が、ふくれ餅の作り方を伝授してもらっており、今まで、そこそこのできぶりである。島に残っている、いとこの一人で、この餅作りの名人と我々が認める女性に数年前に教わってから、母親のものとは少し変わって、粘り気がちょうど良いのを、昨年のお盆に作ってくれた。 ところが、今年のお盆に作ったのは、失敗作だった。先に書いた叔母の作ったのはこれかというものだった。家内も途中でおかしいと気がついたものの、どうすることもできなかったようだ。私は、問題が起こると、その原因を突き止めるのが大好きである。落ち込んでいる家内に、いろいろ理由をを尋ねると、機嫌が悪くなる。「俺はお前を責めてはいない、来年に向けて原因を究明したいだけだ」と言うも、話に乗ってこない。「俺の母親は、なぜ失敗したかをいつもしっかり考えていた」と言ったのが悪かった。「来年からは作らない」言い出してしまった。失敗作で、固いけど、団子と思えば食えなくもなかったので、そのむね言ったものの機嫌は直らない。私はさらにひどいことを、娘への電話の中で喋ってしまった。「今年のふくれ餅はふくれず、母さんの顔がふくれている」。 夫婦喧嘩をしながらも、失敗の原因は、イースト菌が悪くなっていたのだろうと結論付けた。このイ