松尾芭蕉と河合曾良

 

曾良が芭蕉の弟子であることを知っている人は多いだろう。彼が壱岐の島で死んだことについてはどうだろうか。彼がここで死んだことを知ったのは、彼の句碑がそこにあると知って見に行ってのことだ。九大に移った年の夏、研究室の学生20名ぐらいで、恒例の合宿旅行に行った。九工大に指導する大学院生が残っていたので、双方の学生が合わせて参加した。雨が降ったので泳ぐはやめて、レンターで島巡りをしたときのことである。

 

句は幾つかあったと思う。その中で今でも覚えているのは、

ゆきゆきてたおれふすともはぎのはな

である。この句を、母校である長崎南高校の開校35(?)周年記念日に呼ばれて、体育館で講演したさい、話の締めくくりに紹介した。持ち時間に追われていたので、スライドに写して2回読み上げただけである。後でお礼の手紙に添えて、原稿用紙一枚ごとに書いた生徒たちの感想文がたくさん送られてきた。(ある組のものには、担任の先生の印が押してあった。先生がチェックした印かもしれない)。その中の一つのあるところに、「赤岩先生が曾良の句を紹介したのは我々へのエールだと思う」と書いてあった。そのこともあったので今でも覚えている次第である。講演題目は「私の学生、会社、大学時代」である。私のブログに同じ題目で掲載しているのは、九工大のとき、飯塚にある嘉穂高校の文化祭で喋ったもの。話はこれとかなり重なっているものの、母校であるから先輩の体験談として、私的なこともだいぶ喋った。例えば、「赤岩先生は、女にフラれたので研究に打ち込んだそうだ」と書いてある感想文があった。私はたまたま運に恵まれた人生であったけれども、ここにいる皆さんが高校を出てどのような体験をするか分からない。もしかして、道半ばで倒れるかもしれない。そのときは、この句が表明している態度を胸のうちに抱いて生きて行ってくださいと言いたかった。先にあげた学生は、私の思いをはっきりつかんでくれていた。

 

南高での話で、曾良が壱岐で死んだのは毒を盛られたからかもと言おうと思ったけど、止めることにした。彼の旅の目的地は対馬であった。対馬藩は日本と韓国の外交窓口であったので、両国の間にあって相当苦労している。

 

昨日、NHK BS をつけてみたら、松尾芭蕉について、歴史家の磯田道史の他に数名の専門家が論じていた。「奥の細道」の旅路には、不自然な所がいくつかあると指摘していた。伊達藩の内情を探る目的があったという。幕府は、伊達藩の勢力増大を恐れて、これを牽制するため日光東照宮の修理工事をさせた。それにより藩の財政が苦しくなり、反幕府の機運があったそうだ。曾良が芭蕉に同行している。曾良が幕府の隠密(スパイ)であるのは明確な事実だそうなので、内情探偵の話は十分信じられると、磯田道史は断言していた。そもそも、芭蕉は忍者で有名な伊賀の出身である。敵の内情を探るのは、忍者が得意とするところである。内情を探るためには、俳諧の師匠として、句会を開くのを表向きにして、各地にいる弟子を訪ねるのが、最も怪しまれずと番組の中で話が出た。

 

伊賀、甲賀の忍者の里は、自立自警する共同体である(百姓と武士の二足の草鞋の小集団、したがってゲリラ戦法と情報戦が得意)。戦国時代に織田信長がこれを制圧するのに手こずったようだ(これは、磯田が登場する別のNHK番組の受け売り)。そもそも、この地は、はるか昔の崇神天皇家にゆかりの地であり、百済系の応神天皇に代っても容易に同化しなかった伝統が残っている(これは、石渡信一郎の説を信奉する私の勝手な推理)。忍者の里が滅ぼされて、生き残りのために徳川幕府に仕えた。忍者の秘伝を伝えた巻物まで献上したそうだ。松尾芭蕉が廃れかけた俳諧を隆盛にできたのは、身分の違いを一切なくして、ひたすら句の創作に専念するやり方が、特に庶民の心をつかんだからだろう。

 

芭蕉がとなえる「不易流行」(表面的には変わりゆくものの、変わらない大事な本質がある)は、忍者の里の百姓と武士の二足の草鞋の生き方が、大きな権力の下で、不自由を余儀なくされたことを反映しているのではなかろうか。

コメント

  1. 公儀隠密の観点から歴史を見るとまた違った面白さが出て来そうですね

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    1. そうですね。重要な情報(事実)をどのように手に入れるか、それを用いてどのような判断をするかは、戦いのみならず、一般 的に大事ですからね。特に、弱い立場の人達にとっては。

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