私と絵画
小供の頃から我が家に飾ってあったのは、マリアさんが子供を抱いている複製画であった。元々、隠れキリシタンであったので、たぶん、父親がどこからか手に入れたのであろう。次に憶えているのは、小学1年生の頃であったろうか。母が小学校 1年生のときに描いたというチューリップの絵を母の実家で観ことである。
自分の絵で思い出すのは、小学校1年生のとき描いた消防車である。教室の後に、何枚かの画が貼り出されたうちの1枚である。そんなに上手だとは我ながら思っていなかった。なぜ、印象に残っているか。絵の横に名前を書いていた。そこには、「あかいわ よしこ」と書いてあったのです。(私は元来、「おっちょこちょい」である。80才になった現在、認知症も始まったのか、いちだんとひどくなっている)。 担任の穎川先生が、皆なに注意するために、わざと選んだのかも知れない。
高校の選択科目は「美術」であった。専門家が派遣されて来て教えていた。高校にもなると、さすがに大人に負けないぐらいの腕前の生徒がいた。その中でとび抜けていたと私が思うのは、同じ五島からの男(O君) だ。同じ下宿に居たこともあった。彼の作品は校舎のどこかに2点ほど常時、飾られていた。1枚の絵は運河で朽ち果てていた船、もう1枚は、下宿の屋根から見たとおぼしき家並みが描かれていた。彼は絵以外にも、文芸・文学に興味があり、試験期間中にも、ろくに勉強せず、月刊の文芸書をも毎月何冊か読んでいた。
彼とは、卒業後もつき合った。私が大学を出て、東京の会社に就職してからは、週末によく会った。お互いに酒も好きであった。彼は私の会社の寮の仲間たちとも仲良くなり、一緒に酒を飲んだ。私が吉本隆明の著作にはまったときには、同じように熱心になり、その他にも、三島由紀夫、安部公房、大江健三郎 などの本について、何時間も語り合ったことがある
彼は独協大学に入ったけれども、3ヶ月もしないで学校へ行かなくなった。そのうち、父親には勘当されたと聞いた。色々な仕事を転々とした。1時期はシルクスクリーン の刷り師をしていた。その頃、有名になった作家 (虹色を使う)の作品を刷ったこともある。 彼はシリーズの何枚かを無料で貰い、私にも1枚くれた。 それは、我々の高校時代の共通の友人の新築祝いとして飾られることになった。
彼が版画に興味を持ったのは、池田満寿夫が気に入ったからのようだった。池田満寿夫 は、ご存知の方も多かろう。32歳のとき、棟方志功に次いで版画家としては最高権威のヴェネツィア・ビエンナーレ展、版画部門の国際大賞を受賞している。その後、仕事場をアメリカに移して、活躍した。芸術家の常かも知れないが、奥さんは何人か変えている。彼は文章もうまく、私も何冊か持っている。随筆では、自分の考え方と生活を隠すことなく、正直に書いている。小説、「エーゲ海に死す」は芥川賞を取った。 映画にもなった。
O君は池田の官能的画風と技法をまねていた。毎日新聞主催の美術展に水彩画を3点出品したことがある。残念ながらどれも落選であった。会場の東京都美術館に作品を受け取りに行ったときの情景をはっきりと思い出す。そのうちの1点は、今でも私が持ってあり、娘が使っていた部屋に飾ってある。
話を「私と絵画」に戻そう。27才の時に、 会社での研究成果を国際会議 (マイクロ波) で発表することになって、初めて、アメリカに渡った。当時の日本は、経済が隆盛し始めていた頃であり、アメリカに技術で追いつころうとしていた。また、米国も 十分余裕があり、日本からの技術者/研究者の訪問を快よく受け 入れしていた。米国出張は未だ高額だったけれども、会社には余裕があったので、 ボストンでの3日間の会議の後に、アメリカ各地区の大学やベル研究所などの訪問を3週間ぐらいで行った。
最初から行きたかったのは、 ニューヨークにある近代美術館(MOMA: Museum of Modern Art) である。ここは、池田満寿夫が日本人で初めて個展を開いていた。残念ながら、池田の 作品を観たかどうかは記憶にない。 はっきりしているのは、ビカソの「ゲルニカ」である。 当時はこれが常時展示されていた。その絵の前で監視員が私の写真を掫ってくれた。この作品は、その後、スペインの「ピカソ美術館」に行ったと聞いている。
その後、大学に移り、学生の論文発表のために外国に行くことが多くなった。毎年2回のペースだったろう。そのたびに、画廊を覗くことが 習慣になった。アメリカのIEEEが主催する移動通信の国際会議は、 春と秋に 年に2回開かれ、そのうち、春はアメリカであったので、アメリカには10回以は行き、先進国他の主な都市にも、それ以上は行っている。サンフランシスコでのときに、入った画廊では、中年の品の良い女性が (経営者だったのだろうか)、「どの作家は好きか」と聞いてきた。「ピカソ」と答えると、「有るよ」と言って、白黒のデッサンを持って来た。値段を聞くと、100万円 (当時の換算:150円/ドル?) ぐらいだったので諦めた。
ここで、O君が言ったことを思い出す。「画家はなんと言っても、金を出して買ってくれる人が1番である。そして、自分の鑑賞眼を鍛えるには、 金をにぎりしめて、自分ならこの絵をいくらなら買うと、思いながら観るのが良い」である。
いつかは、ニューヨークの画廊に入って、私はそれを実践した。私のふところ具合からして、その当時は、10万円ぐらいが上限だったろうか。 店員に説明すると、メキシコの 作家の作品で、気に入った手頃のものが見つかった。私が全く知らないZuniga と言う作家である。本来は彫刻家だそうな。 エジプトへ旅行したときの作品の中の1つである。ピラミッドを描いた版画 (リトグラフ)を買った。10万円ぐらいだったか。
次に買ったのは、Jansem (アルメニア人) の大きなリトグラフである。九工大に勤務していたとき、若い女性が部屋に訪問販売にきたのだ。25万円する。気に入ったけど、なかなか手が出ない。家に帰ってから、カミさんに事情を話したら、そんなに気残りするのなら、買っても良いとのお許しが出た。銀のローソク立てと枯れたヒマワリの花瓶などがある食卓を描いたものだ。食堂 に飾ってあり、 これまで、2人が誉めてくれた。Jansem (ジャンセン) は、日本人好みの作家であることは、後で知った。バブル景気の頃で、普通 の主婦でも気軽に買ったそうだ。ジャンセンは、その後、大阪の画廊で小型のものを1枚買った、女の道化師アルルカンを描いたもので、 寝室に飾ってある。ジャンセンは、その後、さらに、パリのシャンゼリゼ通りの画廊で買った。 大型の従て型の白黒版画である。
貧しい農家の若い母親が赤ん坊を抱いている。背後に馬が居る。私には子供の頃、観たマリア様の絵のように思えた。私が「ジャンセン」と 口に出したら、店のの主人が「ジャンセム」と発音を訂正してきた。 値段を聞くと20万円ぐらいだったか。カード払いでよいかと聞くと、 アメリカンエキスプレスならよいと言う。私が持っていたのはVISAのみである。私が欲しそうにしていたのをみて、主人が言う。「取っておくから、お前が日本に帰ってから送金しろ。そしたら、送ってやる」 。無事に届き、今は、五島の実家の玄関脇に飾ってある。
油絵の1点ものは、銀座の 画廊で、渡辺文一のものを2点買った。この作家も知らなかった。1つは、「営倉」と題されていて、囚人がヒゲ伸び放題で書かれている。他は、少年が西洋風の家の石段に腰かけて、物思いにふけっている。 2点ともカミさんは恐いと言う。
油絵はその他にも、カミさんの知り合いの親戚スジの男の人の作品を持っている。作家は芸大を出ているそうだ。最初は 、個展を天神で開いた折にカミさんが誘われ、つき合いで買った 。次の年には私も一緒に行って買った。いずれも花を描いてある。油絵の具に卵の黄身を溶かして背景にしている。テンペラ画と言い、 昔から宗教画に使われているようだ。
その他には、ゴッホ美術館で買った印刷物 (カキツバタを花びんにさしてある)だ。立派な額縁に入れたので、そんなにちゃちには見えない。ゴッホの筆つかいはしっかりと分かる。ゴッホのもう一つの作品(もちろん複製)は、葛飾北斎の版画、風になびくケシの花に白い蝶が止まっているもの、と並べて居間に飾っている。北斎の版画は、複製ながら本物である。どういうことかといえば、京都にある工房が日本版画の伝統技術を守るために、北斎の絵を、版起こしして、実際に木版画として刷ってある。従って当時の色使いを新鮮に再現している。ゴッホは日本の浮世絵の影響を強く受けた一人である。北斎のこの絵を意識して、同じように白い蝶が花にとまっている花瓶を描いたものである。しかし、色調はゴッホ特有の暗い陰影である。白い蝶がひときわ目立つ。
日本画とも西洋画とも思える1点物は、奈留島の笠松記念会館で個展を開いていた五島出身の作家 (川村画伯) のものである。実は、この作家は私の姉の夫のオイッ子になる。偶然にもこの作家は、私の会社同期の男(九大数学科卒)が絵を習っていて、その先生の友達であることが判明した。
その外には、棟方志功の版画が4点ある。 これは、会社勤めの息子が取引先からもらった、安川電機のカレンダーに入っていたものだ。 安川電機は棟方志功のパトロンだったそうだ。カレンダーといっても、本格的な紙に印刷してあり、切り取って 額に入れることを前提としている。すべて額装して 3点は奈留島の実家に、1点は自宅の廊下にある。
その他の1点物は水彩画である。これは、九大の卒業研究での指導教官であった平川金四郎先生の作品である。先生は銀座で何度か 個展を開いている。かなりの達人である。何かの折に先生を久し振りに訪ねた際に、先生が壁にある絵のうち、どれか1点をくれると言う。 私は、一番気に入った橋を描いた絵、フランスの田舎にスケッチ旅行に行かれた際の作品の一つを示した。先生は少しやるのがおしくなったような顔をして、漁港を 描いた作品を示して、「こっちはどうかね」と言った。私は「いや、こちらが好きです」と返す。先生は、「そのようにはっきり言ってくれる人にあげるべきだ」と おっしゃって下さった。玄関の下駄箱の上に飾っている。
その他の油絵は、テニス仲間でガンになって死ぬ前に描き続けたKさんの作品である。これは、JTBのスピーカーをバックにした、花瓶の花を描いている。オーディオ仲間であった、私のために特別に描いてくれたものだ。彼が好きだった インディアンレッドという赤い絵の具の使い方がすばらしい。
長々と書いてきたけど、最後の話になる。実はこのために、今回のブログを書くことになったのである。この絵の作家とは、スペインのバルセロナであった国際会議の折に、サグラダファミリア教会の見物に行って出会った。長い行列ができていたので、中に入るのは諦めて、みやげ用の絵を売っている場所に行ってみた。どこにでもあるケバケバしい作品ばかりが多い。その1角 に私と同年輩ぐらいの男が1人立って、自分の作品を売っている。作品に興味が持てたのと、顔つきが アジア系なので、話かけてみた。バスク人(スペイン領内)だと言う。気に入ったので、2枚買う。一つは、油絵で、インカの少女の顔を描いている。 サインもしっかり入れてある。もう1枚はデッサンで、裸体の女性の上半身をデフォルメして 描いてある。私が「ピカソに似ている」と言うと、彼は、「現代の画家でピカソの影響を受けていない画家はいない」と言い切った。 出していない作品も見せてもらったら、他にも欲しいのがある。「残念ながら持ち金が底をついた」と言うと、すぐ先を指差して、「あそこに両替機がある」というので、クレジットカードで金を引き出して、さらに2点を買った。彼は、「俺の作品を買ってくれた日本人はお前だけだ」と話した。
実はこの男が2日前の私の夢の中に現われたのだ。続きは、次の ブログ「私の正夢」そして、それに続く「数学論文投稿( バンザイとヌカ喜び)」へつながる予定です。
赤岩さんの秘めた一面、楽しかったです。
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