佐伯啓思「近代の虚妄 - 現代文明論序説 -」

 

この本は、202010月に東洋経済新報社より出ている。493頁からなる本格的書物である。著者、佐伯啓思は、朝日新聞で不定期に掲載される「異論のススメ」で前から注目していた。物事の本質を自分自身の頭で考え抜こうとする姿勢を私は買っている。加藤周一が、同じ新聞で「夕陽妄語」と題して連載していたものと同じ印象を受ける。この本はついこの前に買ったばかりなのに、どのようなきっかけで買ったのかは思い出せない。

 

ここでは、この本の内容を私なりにごく簡単に要約して紹介するとともに、これをダシにして私の持論を述べてみたい。

 

著者は序章として、「新型コロナウィルス」から始める。そこでは、以下のような項目が順番に論じられる。「直撃されたグローバル資本主義」、「停止した民主主義」、「パニックを増幅する「専門家」とメディア」、「常識はどこへ行った?」、「死は常に待ち構えている」、「現代社会はヨーロッパ近代の延長上にある」、「21世紀のタイタニック、現代文明の問題」、「コロナが象徴するもの」である。本書の内容は、これまでの哲学の歴史を著者なりの解釈を加えて紹介することで、ここで挙げた論点を繰り返し論じる。

 

第一章「フェイク時代の民主主義」はトランプ大統領が登場してからの政治状況でまとめることができよう。冷戦で勝利し、世界の覇権を握った近代アメリカが、トランプの登場で民主主義の問題を明らかにしたと書く。著者は、トランプ大統領の誕生を、ここ10年の最大の出来事だとする。私なりに言い換えてまとめよう。トランプが選挙公約に掲げたのは、労働者、主にアメリカ白人中間層 (大衆) を再び前のような地位に戻してあげると言うものだった。この問題意識は極めて妥当である。しかし、彼のその解決手段は、メキシコ国境に壁を設置して不法移民の流入を防ぐことを例として、よく考えれば成功しない嘘 (フェイク)とわかるものが多い。しかし、トランプを支持した大衆は、選挙においてトランプの公約を認めたのだ。

 

著者によれば、このような政治状況は、ギリシア時代に既に現れていたとする。いわゆる、ソフィスト(詭弁家) は物事の真理は無視して、いかにして、大衆の支持を得るかの弁論技術を競った。これに対して、アリストテレスとプラトンは、詭弁の間違いを正そうとした。真理 (イデア)と呼ばれる真の知識を示そうとしたのである。そこでは、「善き国家」、「善き市民」、「善き生」とは何かを問い続ける。この問いはデカルトに引き継がれる。

 

著者のその後の論述の展開をまとめるのは、私の手にあまる。それで、思いつくまま、ええ加減に私なりに書く。カギとなる単語は、「真理、理性、神」と「大衆」である。「真理」、あるいは、「神」の問題は、ヘーゲルとニーチェの哲学として紹介される。ヘーゲルは、万人が等しく「主人」であるリベラルな民主主義の実現を楽観視した。これに対して、ニーチェは、「リベラル民主主義」では、人々は「主人」ではなく「奴隷」だと言う。したがって、フランス革命は「奴隷」の革命だとを書く。なぜなら、大衆のささやかな対等願望は、真理や理性を追求することをやめるからだ。そして彼らは家畜の群れとなる。ニーチェが「神は死んだ」と言ったのはこのことを含んでいるのだそうだ。これから脱する思想としてニーチェは「超人」を発明する。

 

大衆の問題を論じるために、著者はオルテガ (「大衆の反逆」) とホイジンガ (「あしたの陰りの中で」)を主に論じている。彼ら2人は、ともに、ナチスが台頭し始めた不穏な社会情勢にあるときに登場した。私は、ここでは、本で現れているいくつかの単語を並べるだけにする。「成り上がり者」、「半教養人」、「小児病化する文明」、「文明 (技術) による文化の破壊」、「反知性主義」である。

 

ハイデガー (「存在と時間」) が登場するのは、「無」あるいは「死」を通して、西田幾多郎の哲学へつなぐ意図が感じられる。著者はハイデガーを次のように述べる。「大衆人は、世界内存在、すなわち、自己であるという独自性もその表情を失い、大衆というのっぺりした「ひと」の中へ姿を没する。そして、おしゃべり、新しい物好き、あいまいさに安住する」。ハイデガーは大衆人の問題を解決しようとしたけれども途中で放棄した。

 

5章の題目は「ニヒリズムの時代としての近代」となっている。著書の言葉を用いて次のように要約する。「この社会にも、人間の様々な営みにも、世界にも、歴史にも格段の意味も、それこそ価値もなくなってしまう。たびたび、あらゆるものが生成し変化し、転変していくという、いわば壮大な相対性の世界、巨大な無意味性が回転するパノラマのような世界が現出するだけである。確実なものは何一つない混沌とした生の流れだけが延々と続く」

 

この問題を解決するために、ニーチェは「力への意志」を書いた。そこでは、人間の主体性の行きつく歴史の終末として、「人間は野蛮な猛獣なり」と言う命題となり、「金髪の野獣」と言う言葉を使っている。デカルトは、従来の形而上学を批判したものの、彼が提唱した「主体性」は新しく「主体性の形而上学」を生み出した。これはニーチェの「力への意志」とつながる

 

「そこでは、人間を世界の中心に位置づけることで、合理的科学による自然支配や、「世界」の征服をもたらした。確かに、科学も技術も、経済も成長した。大衆化と民主主義も進展した。情報も通信も活発になった。交通網も整備され、世界は狭くなった。だが、その結果、現実にもたされたのは、とてつもない大規模な世界戦争であり、アメリカやロシア(ソ連)に代表される極端な機械文明であり、技術と経済をめぐる覇権争いであり、大衆の登場による政治の混乱であった」と書く。

 

6章「科学技術に翻弄される現代文明」、第7章「暴走するグローバル資本主義」については省略する。

 

8章「無の思想と西田哲学」及び、終章「日本思想の可能性」は、何かとってつけた印象を私は感じる。西洋哲学での人間を主体とする考え方に対して、西田哲学及び仏教における「無」の思想が異なることを解説しているものの、それによって我々人間がどのように生きるべきかについて (西洋哲学思想が陥っている問題) について何ら答えは出されていないからである。そのことは著者自身も明言している。日本 (東洋) の「無の思想」が、自然を貪り利用することに制限をかけるものでもないし、人間同士が殺し合いを止めるような哲学的根拠を与えるものでもない。人間が煩悩のかたまりであることを認識せよ、人間の煩悩は「幻想」であることを言うのであれば、少しはわかる気がする。しかし著者はそのようなもの言いはしていない。これでは、問題の起源を述べているだけであり、解決策にはならない。


結論として、この本は「近代の虚妄」を明らかにするために、その原因をこれまでの哲学に求め、著者が自分の頭で考えることを重要視して書いたものである。文章の冴えは素晴らしく、要約すると失われてしまう。いちど哲学を読みかじった人々に特に勧めたい。

 

ここからは私の持論 (ブログのあちこちで書いてある) を述べる。この本を読んで最も気にいったところを紹介する。「動物は普段はおとなしいものである。猛獣や野獣も生きるために獲物を襲い、殺して食べる。だが、必要以上に襲いはしない。ましてや、「より多く、より大きく」などと思案はしない。野獣の獰猛さは、それ自体が「自然」と共にある生の一環なのである。獰猛さそのものが自然の摂理なのである」。

 

「とすれば、本当に「野蛮」なのは、その自然を破壊的な対象として制覇し、野獣さえも殺してブランド品に仕立てて金を儲けて得々としている我々近代人の方では無いのだろうか。あるいは、あらゆるものを飽食し続けて挙句の果てにダイエットに励み、自分自身の遺伝子に細工を施して自己を改造して寿命を伸ばし、ささいな陰口やわずかなすれ違いを根に持って人を殺めたりする我々の方が「野蛮」では無いのだろうか。そして、これは全て、人間が「主体」となったことの帰結である。動物はいかに野獣であっても、決してサバンナの「主体」にはなり得ない。彼らは必ず自然の摂理に復する」。

 

私はこの点をさらに深く考察して欲しかった。そもそも、哲学者が考えるのは、人間と言う動物を最初から特別視しているように思える。人間が色々と考えることができるのは、言葉を発明発達させることにより、新しく取り入れた知識を後世に伝えるスベができ、知識の蓄積がおそろしく進んだからである。それを可能にしたのは、突然変異で現れた新人類の「高性能の脳」である。旧人類であるネアンデルタール人のままであったなら、現代の文化、文明は生じなかったであろうあろう。そして、人間各人の行動基準を定める脳の状態 (生まれてから常に行われている学習をもとにして、獲得/更新されている意識・思考のプログラム) が、かくも千差万別である事はなかったであろう。

 

新しく現れた、もっともらしい思想哲学は次々に否定されてきた。これは、心理学者・精神分析家である岸田秀の唱える唯幻論 (人間は本能が壊れた動物であり、自分で作った幻想に従って行動するしかない) の考え方の正しさの証左となろう。そして、残るのは、まさしくニヒリズムではなかろうか。R.ドーキンスの「利己的な遺伝子」の考え方によれば、われわれは、そのDNA (タンパク質) が生き延びるための、1代限りで死んでいく乗り物に過ぎない。もっと言うならば、地球上のすべての生物は、30億年経ったら死滅することになっている。太陽が燃え尽きかけて膨張し地球をも包んでしまうことを宇宙物理学は明らかにしているのだ。これは究極のニヒリズムにつながるだろう。要は、これらのある意味で不条理な事実を直視して、自分でどのように考え生きるかにある。

 

われわれは、誰もその人なりの「生」を望んでいるだろう。しかし、生まれた両親、健康、及び国に、特に教育に、恵まれなければ生きるのが辛い状況にいたる。経済的に恵まれないと、生きることももママないならないだろう。このとき、政治と経済の体制が重要となる。経済には、有能・有徳の指導者とともに、自分で考えることができる自立した大衆が必要である。最も重要な事は、権力が少数者に集まることを防止する体制作りである。経済においては、運悪く困難な状況に陥った人があれば、救いの手が出される制度が必要である。これは自分の国のみならず、後進国も含めて考えなければならない。そのためには、経済的所得で大きな格差が出ないようにする仕組みが必要だ。斎藤幸平は資本主義では無理だと言う。今の私には判断できない。哲学者・経済学者の今後の1番重要な研究課題であろう。

 

私は次の解決策を示したい。日本国において、仮に正当な経済活動の対価だとしても、年間10億円以上の報酬を受け入れる人々は、精神の病気だと診断を下して、超過分は税金として納めさせたらよい。金融資産についても、年々課税をし、新しく得た資産は10年位で消失するようにする。固定資産税も相続税も課税を強化すべきである。このように金持ちへの課税を強化しても、つくり出される金の額は充分ではないと言う説もある。誰か明確に検証してほしい。しかし、金額は大した事ではない。人々が納得し、政治経済を信頼できるようにするのが目的であるからである。

 

私の哲学をまとめると (前にどこかで書いた)、「死ぬな、殺すな、困っている人を助けろ」となる。

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