中国の歴史と論理
中国は一筋縄には理解できない不思議な国である。多くの中国人は日本を嫌いだと言われる。しかし、最近は豊かになって、日本観光に大挙して来て、ついでに、爆買いし、金を落としてくれている。経済的には、米国を脅かすほどになって、日本を含めて、世界の国々がその動向に影響を受けている。その歴史と文化は、先進西洋諸国に決して負けてはいない。日本は中国の文化文明に多大の恩恵を受けてきた。しかし、産業革命に始まる近代化に乗り遅れ、清朝末期には外国から侵蝕された。さらには、先の日中戦争では、多大の損害を受けた。この時の屈辱、過去の栄光、現在での経済発展がないまぜになって、中国人の言動の理解を難しくしているのであろう。
私は、高校で漢文を習ったのを契機にして、中国の思想、哲学に興味を抱いていた。特に、荘子と老子、その後、毛沢東に興味を惹かれて、そこそこの冊数の本を読んできた。若いときには会社を辞めて、中国哲学の研究者になろうかと真面目に考えたこともある。私が興味を持ったこれらの中国思想は今ではさほど重要視されていないようだ。「老荘」思想と、毛沢東の人民の幸福を追求する姿勢は、たとえ行き過ぎと経済的失敗はあったしても、私には大事に思える。
最近、岡本隆司、「倭寇とは何か」(新潮新書、2025年2月20日)を買って読んだ。副題は、- 中華を揺さぶる「海賊」の正体 - である。著者 (1965年生まれ、神戸大学文学部、京大大学院(文学)卒 、現在は早稲田大学教授)、については、「週刊東洋経済」に連載していたときに知り注目していた。事の本質を的確にとらえる論旨は、特筆しておきたい。「なぜか」を常に正面に据えての論の展開に無理が無いので読みやすい。本人が書いた著作の心構えを抜粋しておく。
勤め先で数年前から講義してきた「東洋史概論」が、小著のベースになっている。学生諸君に東洋史学、中国史的慨略を掴んでもらう授業ながら、半ば強要した話ではあって、 それだけに「悪評」嘖嘖、「わからない」「厳しい」と毎年お叱りをいただいた。自身の力不足は棚上げすれば、中国の話は日本と多分に異質だし、どうしても漢字がたくさん出てくるので、漢語にあまり親しまなくなった若い方々では、なじみにくいのはやむをえない。
世人はよく誤解する。難解であれば高尚なのだと。これは海外の高度な文化を摂取することで、自らの文明を構築してきた日本人の歴史的習癖である。漢語であれ横文字であれ、離解な外国語をみればコンプレックスを抱きがち、ひいては、知識人が浅薄な知識を衒って威張り、大衆が一知半解を悟らずにもてはやす社会的土壌をなしている。
明快平易なほど尊い、というのが筆者年来の立場。だから「わからない」という評価が一番こたえる。毎年、試行錯誤りくりかえし、なんとか少しでもわかりやすく、嫌いな中国に近づいてもらう手立、はないものか。学間や世上の動きばかりでなく、自身の日常業務でも共通する悩みだったのである。
他の著作本もネットで調べて、「中国の論理」(中公新書2016年)、「帝国で読み解く近現代史」(君塚直隆との対談、中公新書ラクレ、2025年再版) を読んだ。ブログで紹介しようと思っていたけど、朝日新聞が 紙面半分を使って、対談解説を行い、先を越された。その後、本棚を探して、彼の別の本、「「中国」の形成:現代への展望」、(岩波新書2020年)を見つけ読み直した。
ここでは、彼の本をもとにして、私なりの理解を、思いつくまま書くことにする。中国の歴史を決定してきた要因、あるいは「論理」を一言にまとめるには、最後に紹介した本の帯にある言葉が適当である。ここには、「一つの中国という夢 —大清国の成立から400年、習近平の「今」まで- とある。中国政府は、「一つの中国」にこだわっている。これは、台湾問題のみならず、チベット、新疆ウイグル自治区の一体化を指している。実は、中国の歴史は、特に漢民族の支配による、一つの中国を完全には実現できないで来たので、現在でも見果てぬ夢であると、言いたいのである。「一つの中国」の実現は、中国周辺の国境を介しての異民族の干渉、侵略によって妨げられてきた。上にあげた本、「倭寇とは何か」は具体的に書いてある。まずは、「倭寇」から始めたい。
「倭寇」には初期と後期がある。初期は倭人(日本人)のみならず、朝鮮、中国の沿岸に住む、航海技術にたけた集団がまとまって、中国沿岸に出向き交易し、時には暴力を用いて、取り引きを行った。「倭寇」の被害のみが強調されてきた。 後期は、日本側の政治体制(室町幕府)が確立し、湾岸地域も含めて、管理が徹底されたので、「倭寇」の主体は中国沿岸を根拠とする華(中国)人が主体となった。 著者は「倭寇」という概念を広げている。北方の「夷」の活動をも含めている。これらはまとめて、「北虜南倭」と呼ばれた。 さらには、イギリスとの阿片戦争も「中華」思想、体制からみたら、「倭寇」に入るとする。中華政治体制の安定を周辺の「外夷」がおびやかす事象と考えれば、無理のない考え方である。 中央政府にとっては、税金徴収も含めて統制が効かなくなるのが問題である。
中国は4大文明の発洋地の1つである。したがって、周辺の国々にその発達した文明・文化による恩恵をもたらした。近世になっては、ヨーロッパにおける発展に比べて、遅れていた印象を受ける。しかし、実情は、明、清代において、西洋、例えばイギリスに比べて、豊かな国であったとして歴史家の再評価が進んでいるそうだ。 その証拠として、イギリスとの阿片戦争の原因があげられる。イギリスは中国の茶、陶器、木綿絹織物などの物品を欲した。しかし、中国側にとっては、イギリスからの目ぼしい購入製品はなかった。それで、一方的貿易となり、イギリスは銀を中国に支払うしかなかった。銀の供給が少なくなると、貿易が成り立たない。おまけに、中国は華夷思想に立っていたので、英国をも外夷として、朝貢貿易を望んでいるとして、見下して対応した(下図、東洋文庫)。
英国は、窮余の策として、インド産のアヘンを中国に持ち込んだ。もちろん、中国側の禁輸品であったので取り締まった。それでも、中国にとって、ゆゆしき結果をもたらすほどになった。なぜか。中国側にもアヘンを扱うことで利益を得る集団が中国国内にいたからである。これは「倭寇」(貿易)と同じである。 いくら取り締っても、利益を受ける集団が中国側におる限り、簡単には根絶できない。
文明化した漢人の政権が天下の中心であり、周りの異国を見下し、忠誠を誓う代わりに恩恵を与えることを中華思想と呼ぶ。このような政治外交施策は漢民族の王朝のみならず、外夷とされた匈奴、鮮卑族、羌族、契丹族、タンゲート、女真族、モンゴル族、満州族などの異民族が中国で打ち立てた政権でも採用されている。中国の政権にとっては、周辺民族からの攻撃をどのようにしてかわし、支配下に置くかは最大の課題なのである。
さらに、中国は広大な土地と多い人口を有する。外夷に対処するとともに、国内をいかにまとめ上げるかが問題である。そのためには、中央集権官僚制度が必要である。官僚を選出する試験制度が「科挙」である。それは、現代のもの以上の難しい試験であったようだ。試験問題に利用されたのが儒教の経典である。儒教は政治支配層である「士」の「礼」を尊び、武力や、技術を用いて食料や生活用品の生産に関わる「庶(民)」を下に見る。そのためもあって、西洋で始まった産業革命の動きに対し、対応が遅れたと言える。韓国(朝鮮) は中華儒教思想の一番弟子を名乗っており、同じように遅れた。日本は、中華儒教思想に深くは染まっていなかったので、明治維新で何とか対応した。
中国の苦闘は、日清戦争に負けてから始まる。革命は日本に留学した孫文が始める。しかし、その思想は従来の儒教の精神に変更を加える中途半端なものだと岡本隆司は書いてある。西洋的な民主主議の概念を導入したのは、康有為の弟子で、同じく日本に留学した梁啓超であるそうだ。彼は、西洋民主主主義の概念を記述するために日本人が造語した漢字用語を利用したとある。私には初耳だ。
孫文は国民党を改組した。ロシア革命の理論に則り、厳格な規律を有する集権的な政軍一体の体制とした。これはコミンテルン支部として上海で発足した中国共産党と同じであり、両党は母胎を同じくした双生児みたいなものだと言う。これも驚きの1つだ。抗日戦争のための「国共合作」がうまくいったはずだ。
日本の敗戦の後、中国共産党が国民党を破り、国民党は台湾に逃れたことは、皆さんご存知だろう。国民党の敗因として、孫文を継いだ袁世凱、蒋介石などの指導層の汚職腐敗によって民心の離脱を招いたとある。これは知らなかった。これに対して、共産党は毛沢東の指導の元で規律が厳格であり、人民を次々に組織に組み込んでいった。そして、都市部にいる国民党を田舎から包囲する作戦が成功した。その後の共産党の動きは改めて書くまでもなかろう。その代わりに私の中国体験を書いておく。
私は、38年前、NECにまだ勤めていた頃、国連の下部組織であるITU主催の「移動通信」に関しての国際会議 (人民大会堂であった) に、日本からの代表として、講演したことがある。当時、中国はセルラー無線電話システムの導入を検討していた。同様の目的意識で、開発途上国もたくさん参加していた。米欧の先進国を代表するメーカーがビジネス機会と捉えて、売り込みを兼ねて講演した。ただし、すべて既存のアナログシステムの発表だった。私が、当時はまだ実用化されていなかった、最先端のディジタル移動通信技術を紹介したところ(英語から中国語への通訳がついていた。私の話は学術的なので専門を同じくする研究者が特別に対応したと後で聞いた)、有益な内容(informative)であったと、中国側が感謝してくれた。その後、中国が導入したのは、西欧諸国が共同で開発したGSM(汎ヨーロッパディジタルセルラー)システムであった。
会期中には人民大会堂で晩餐会があり、歓迎の挨拶は少数民族代表のトップが行った。また、別の日の夜、中国側は、参加者を観劇に招待した。ただし、この招待は米欧の先進国関係者のみであったらしく、開発途上国の関係者は別に、特別な中華料理店に招待された。私は、観劇には参加しないように耳打ちされていた。
この時私が感じた中国は、まだ経済的には豊かではないものの(北京の広い道路は自転車で埋め尽くされていて、車は少なかった)、人々が規律正しく、親切であるとの印象が残っている。例えば、ホテルに残した忘れ物は小さなものでも、必ず届けられたようだ。文化大革命の良い意味の余韻が国民に残っていたのかもしれない。
文化大革命は、毛沢東の農業政策の失敗と並んで、批判されている。しかし、共産党による革命は、中国における長い歴史における儒教思想からの決別を成し遂げた。そこでは、これまで大事にされなかった「庶(民)」が、建前上最上位に押し上げられた。また、共産党が采配する国家資本主義経済がそこそこ成功している。けれども、残っている問題は多い。
「一つの中国」問題はまだ解決されていない。解決方法は中国がすでに行った実績がある。清朝が行った、「因俗而治」、すなわち異民族の習慣に任せて、緩やかに統治する政策がそれである。漢民族への全くの同化は無理がある。日本の朝鮮台湾同化政策の失敗が教えてくれるはずだ。
経済の問題も残っている。資本主義市場の導入により、経済成長は達成しつつある。しかし、経済較差拡大は中国でも深刻なようである。経済富裕層がかなり増えているようであるが、しかし、農村や少数民族の地域では、経済成長の恩恵をまだ受け取っていないであろう。14億人ものの人々を等しく豊かにするのは難しいであろう。中国人の長い歴史で得た知恵を生かして、国民が等しく住みやすい国を、社会主義/共産主義の理念に立ち返って、世界に先駆けて実現して欲しい。
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