吉田茂の自問 敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」 (小倉和夫、藤原書店、2003年9月)
表題にある「報告書」は、吉田茂が昭和26年 (1951年) に外務省政策局政務課長斉藤鎮男を呼び出して、作成を命じた。戦争の当時者に当って若い課長だけで、先の戦争の失敗の拠ってきたことを究明し、後世の参考にするためである。この「報告書」は、2003年4月に、50年間 の秘密指定が解除された。この資料をもとにして、著者、小倉 (前フランス大使) が自分自身の見解を書いている。「報告書」の指摘に触れてれているものの、著者の考えが随所に被歴されて いる。
私は、昭和の戦争について本を読んで、そこそこ、理解して来たつもりであった。保阪正康と半藤一利の主だった本はほとんど読んだ。今回の本は、外務省の立場で書かれている。そのため、それまでのものと違う視点が新鮮に感じられる。
ここでは、私が気がついたところを、つまみぐい的に取り出して紹介する。本の動機について、次のように書く。「それしか現実に選択肢はないのだ」という殺し文句こそ、日本を日米開戦に追いやり、あの戦争の悲劇をひきおこした時に最も使われた文句だったことを忘れてはなるまい。今日、平和憲法の改正や、自衛隊の海外派遣の是非、あるいは集団的自衛権についての議論においても、このような殺し文句が政府から出される。本当にそうであろうか。普天間基地の辺野古移設についても、この殺し文句が使われている。しかし、米軍関係者の 中には、別の選択肢を上げていたことが知られている。「それしか選択肢はない 」という結論は信じてはならない。 疑ってみるべきだある 。
政治や経済、ましてや戦争においては、たくさんの人々の思わくがあり、政策決定者が何かの思い込みの結果、ある一部の人たちの思わくに乗っていたりすることを、「日本外交の過誤」は教えている。
満州事変
著者は「報告書」にふれたのち、 「 朝鮮駐留軍の出動を追認して、経費支出まで認めてしまい、 また関東軍の満州全土への展開に目を閉ざし、事変の生起及びその時の軍の行動についての責任を追及せず、真相をうやむやのうちに、覆いかくすことに対して、外務当局が体を張っても抵抗するだけの意思と胆力を持っていなかったのはどうしたことか」と書く。
国際連盟脱退
1933年2月24日、リットン報告書の表決の前に総会で外相松岡洋右は脱退の演説をした。表決は42対1 (棄権1) である。政府は脱退についてはためらっていたのに対し、 現地の代表部が強く主張したとある。これは初耳である。松岡洋右は日本で非難されると思っていた。事実は、逆で、日本で英雄扱いされた。著者は、脱退が愚策であったとする。 また、このような事態になったのは、日本人全体としての国際感覚の欠除を理由としている。まさに、そのとおりだ。
軍縮会議からの脱退
1922年のワシントン海軍軍縮会議ののち、1935年にンドン会議で脱退した。 「報告書」には、「どこの国の軍人でも、軍備ができると戦争したくなる」とある。したがって、これを抑える文民による制御 (civilian control) が大事だ。ただし、共産主義国や一部の権威主義的国家にはその心配がない。日本は中途半端だった。
日独防共協定
東郷欧亜局長はこれに反対した。ナチス・ヒットラーの過激な行動は世界的動乱の源となりかねず、これと日本が結ぶことは得策でないと考えたので。 これに対して、当時の外務大臣有田八郎は、次のように考えた。 ドイツとの漠然たる同盟であれば、ソ連に対する牽制となり、 英国も事と次第ではついてくる可能性もある。 事実は逆になった。 このまちがった協定に至った理由: 陸、海 、外務の3省の若手課長級の会合で、外交政策が実質上決定された。なぜそうなったか。若手将校の血気の結晶であった2.26事件の 余燼がくすぶりつづけていたからだ。 このような空気は、天皇、政府、軍の上層においても、大いに影響を与えたと、私は、歴史本で知っている。
著者は、「民主主義という偽善」ということばを使っている。主義や思想の違いという名目で、実は、経済的、軍事的利害の相違をカムフラージュする偽善というものだ。日本外交の最大の過誤は日独防共協定にある。その背景には、ソ連の思惑を完全に見誤ったことがある。 日独伊にソ連を加えた協定が、本質的に矛盾している。在独大島大使が再三の東京からの指令を無視してドイツにすり寄った。これに対して、政府は召置も更迭も行わなかった。 松岡が進めた日ソ中立条約は、彼の幻想と焦りが招いたとしている。ドイツは日本を利用しようとしただけであり、ソ連もまた、対独外交で(ドイツのソ連侵攻を察知し、初めは拒否していた日本との平和条約を結んで)、日本を利用しようとした。ソ連への日本の幻想は、終戦交渉でも、広田・マリク会談として現れている。
この報告書は、当時の指導者たちへの会見記録を載せている。堀田正昭大使、有田八郎大臣、重光葵大臣、佐藤尚武大使、林久治郎大使、芳沢謙吉大使 、広田外務大臣である。彼らの肉声発言が興味を引く。
堀田大使の所見
このように、条約が出来たこと自体はよかったのだが、ただここから将来に対して悪い影響を及ぼしたことが二、三ある。 第一は例の統帥権問題である。軍令部総長の加藤の維握上奏の問題に関連してである。 当時浜口首相は、枢密院で理論的に明快に反駁している。即ち、「大権は一つにして不可分のものである。 従って一つの大権が他の大権を犯すというようなことはあり得ないことだ。大権干犯といっているのは、 要するに大権の下にある各部間の管掌事項に関する権限争いにすぎない」といっている。しかし、実際にはこの問題をここまで徹底して解決しなかった。即ち、浜口首相は、議会辺りでは、「本件は外交の問題だから政府が独自に決定した」とは云わないで 「事実上海軍との意見の一致は出来た」と説明している。 そこで統帥権の独立ということは、理論としては勝ったような形になっている。このことがあって間もなく 海軍の内部で申合せが出来て、「この種の問題については、軍と軍政の意見の一致がなければならない」と いうことが定められた。これによれば、軍令系統のことも軍政系統と相談しないで勝手なことをやることは出来なくなるわけであるが、実際は、軍令が承知しないと政府は何も決定できないという効果の方が出て来たわけである。
赤岩 このことは統帥権の干犯という、後々の大問題になってしまった。私は、明治憲法の立て付けの不具合であり、どうしようもないと思っていた。すなわち、天皇は政府と軍隊を統括はするものの、実際には彼自身が決定をすることを避けるシステムになっていたので、彼自身が股裂き状態となったというものだ。しかし、ここで書いているように、問題発生を防ぐ手立てはあったのだ。天皇自身はこのことを理解しており、責任が自分に及ばないように気をつけていたのだろうか。彼の願いは皇室存続にあり、戦争勝利ではなかっただろう。
外交の誤りを犯させるに至った根本の原因は軍部が外交に口を入れるようになったことである。これは絶対にさせてはならない。
大島や白鳥は政府の言うことを聞かないことが度々あった。しかし、彼らは辞めさせられなかった。
赤岩 昭和天皇が靖国神社に参拝しなくなったのは、A級戦犯が合祀されたからだ。天皇が、合祀を聞いて、「白鳥までもと」口にしたのがこれでわかる。
有田大臣の所見
一体軍の方では、軍人の悪いことを出すことは、軍の威信にかかるという狭い考え方で、悪事が世間に知れ渡っているような場合でも、軍法会議にかけたりしなかった。一緒に命がけの戦争をする間柄であるから、自然親分子分の気持ちが出て、お互いに悪いことは隠すようなことになった。これが軍の腐敗を内向させることになった。
重光大臣の所見
その時々の当事者は、真剣に血みどろの闘 いをしてきたのだか ら、これをいやしくも真剣に批評するとなると容易に結論はでない。これがいけなかった。あれがいけなかったということよりも、事実を正確公平に記述することが一番結構なことと思う。
近衛という人は矛盾だらけの乱脈な人だった 。
赤岩 天皇は「近衛は弱いね」と側近に話したそうだ。
鈴木さんが組閣の当時から終戦の肚であったと言っても、客観的に見ればそれと反対のことをしていることは否定できない。
赤岩 半藤一利、「日本のいちばん長い日」の印象と異なる。
林久治郎大使の談話
日本の対満関係を困難にし、従ってまた満州事変の遠因ともなった一つの重要な因子は、何と言っても張作霖を爆殺したことであると思う。
広田は、私的な友人関係では、実に立派な男だった。しかし、公人としては、罪が深い。
赤岩 こう言われると、城山三郎、「落日燃ゆ」が疑問になる。また、東京裁判で唯一の文官として絞首刑になった(7対6?)ことが分かる。
芳沢大使の談話
一体歴史を見てもわかる通り、日本は軍人が勢力を持っていた国である。結局悪く言えば日本国民は好戦国民であった。
国家組織がこうであった上に、軍の上の人に統制力がなくなってきたのだから、まるで子供に刃物を持たせると同じ結果になった。
その上に政治家連中の事大主義ということがある。大政翼賛会ができた時に政党の領袖達は、自分の方から腰を屈っして行った。
太平洋戦争の勃発について、ある実業家がこれは外交官の責任であると言っていたが、これはとんでもない見当違いである。東條は、天皇陛下を強要して、開戦のお許しをいただいたのである。これを止めようとしたら、天皇陛下でも危なかったであろうと思う。
赤岩 保坂正康、「東條英機と天皇の時代」の印象とやや違う。また。芳沢大使は、外務省の言い訳のみをしている。筆者は、外務大臣が抵抗して辞職するくらいの覚悟があれば、軍部の独走は止められたと書いている。
佐藤大使の所見
東條英機に対して、「素人だけれども、日本はこれまで、今度のような 割の悪い戦をやったことはないと思う。日本は如何に鯱立ちしてもアメリカの咽喉元を絞めるわけには行かない。ところがアメリカの方は日本に対してそれが出来る」と言った。東條は苦い顔をして、「必ずしもそう思わない」と言ったので、「それはどういうわけか」と 反問したら、「例えば米国内でも世論がまとまっておらない。日本人もおれば独逸人もいる。これらに手を廻せば、何か打つ手もあるだろう」といった。これは、無準備で試験に出た学生の答案のようなもので、馬鹿馬鹿しい素人論だが、自分はウンともスンといわないで帰った。
日本の軍部でも幼年学校出が一番始末が悪かった。ソ連も 幼年学校をたくさん作っている。これが将来に、悪影響を及ぼすだろう。
赤岩 東條英機は陸軍幼年学校での成績優秀者。 軍の大学校での成績優秀者が軍のトップにつく慣習が問題だった。学校での試験成績は、勉強さえすれば良くなる。実際の仕事の問題を解決するのに、試験問題に早く間違いなく、また、教官の問いに気に入る答えを書く能力はさほど重要ではない。
以下、私の感想のまとめる。これまでの、昭和の戦争に関する書物は、たいていは1人の著者が限られた資料を元に、ある特定の局面を主題にして書いてある。これに対して、この本は、外務省の若手が集団で、戦争後の間もない頃に、戦争中の長い期間を通しての先輩たちの仕事、主にその過誤、を検証していることで、異色の存在である。第1級の歴史資料である。たくさんの指導者がまな板に上がっている。もともと公表するつもりはなかったからだ。また、肉声の会話が書かれているので、臨場感がある。
戦争の指導者の責任を追及するための裁判は日本が主体になってすべきだったという意見もある。ただし、これがどこまで、正当に行えたかは疑問がある。この「報告書」は、その裁判に代わる役割を幾らかは果たしているだろう。
私がいちばん感じたのは、指導者層の力量の不足である。特に軍部がそうである。それにすれば外務省はまだマシだったようだ。これには教育の違いがあったであろう。教育は本当に大事だ。当の本人に言わせれば、いろんな言い訳がでて来るのは間違いない。たいていは、その時にはそれしか道が無かったと言うだろう。しかし、ここで書かれた事実を読む限り、指導者にはもう少し賢く考えて欲しかった。何せ、この戦争で、日本人の軍人軍属などの戦死230万人、民間人の国外での死亡30万人、国内での空襲等による死者50万人以上、合計310万人以上(63年の厚生省発表)の日本人犠牲を、また、アジア・太平洋各国に2000万人以上の死者を、出したのである。
ところで、指導者層の力量がその後、改善されたであろうか。確かに大きな戦争は起きていない。しかし、小さな戦争、あるいは紛争は止むことはない。これまでの戦争の原因となった経済不況はそれほどまで深刻な事態にはなって来なかった。しかし、国内における経済格差、国間の経済格差は戦争以前に比べて、静かに進行している。これが右翼の台頭につながっている。戦争時の全体主義へ進む心配がある。指導者層の力量が大いに試されるだろう。ただし、現在の国内外における指導者層の力量は決して楽観できない。
今日(2025.1.3)の朝日新聞にも太平洋戦争開戦について書かれている。そこには、“勢い“と言う言葉が使われている。
返信削除付和雷同も勢い。自分の考えが無ければそれに流される。
今の時代にも言えること。日本人には流される人間が多い。
今後難しい局面になるが、同じ過ちを犯すだろう。
そうかもしれない。しかし、そうしてはならない。さてどうする。
削除さてどうなるか。体をはって自分の意見を通す指導者を期待できるか否か。石橋湛山が今見直しされている。石破は石橋を継ぐことができるか。
削除さてどうなるか。体をはって自分の信念を貫ける指導者が出てくるか。石橋湛山が今見直しされている。石破が石橋を継ぐことが出来ないものか。
削除我々自身が自分の確固たるものを持たねばならない。世界を構成しているのは我々自身だから。
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