平川金四郎 先生

 

大学生時代のことである。1人で少し遠くに行きたいと思ったのだろう。西鉄電車に乗って新宮駅で降り、松林を抜けて海岸まで行った。当時は駅から海の方へは、家はほとんど無かった。松の木も今よりずっと多かった。 海を観てからの帰り道、松林の中にある平屋の洋風の1軒家をふと覗いてみたら、洋間で中年の男がバイオリンを弾いていた。その人が平川金四郎先生であったことを、後で知った。奥さんがピアノを弾いて、2人で演奏を楽しむ ことも。

 

私が学んでいた当時の九大の電子工学科は、創設されてから数年しか経っていなかった。当時の電気系の学科は、古い順で、電気工学科、通信工学科、電子工学科である。とは言っても、通信と電子は全く共通の講義であり、卒業研究でどの先生につくかだけの違い である。私は平川金四郎先生 (以下、先生と書く)の研究室を希望して、他の学生2人と一緒に入れてもらった。助教授の 平川一義先生も同じ数の卒研生を受け入れておられた。 2人とも九大の理学部から異動してこられていた。統計物理学の講義をされた山藤先生も同様である。 彼は、博士をとったばかりだった。 先生は、Kittelの教科書、「固体物理学入門」を下敷きにして講義されておられた。私は元々、物理学に興味があったのでこの講義が好きであった。 先生の人柄もあってのことだろう。授業中に後の方の席の唯かが何か話したのを聞いて、先生は「どなたですか、何か質問がありますか」と言われた。その学生は 何も言わなかった。ただの私語だったのかもしれない。ネットで調べてみると先生は当時41才である。 

 

卒業研究の題目は、今でもおぼえている。「一次元反強性体」である。 化合物 KCuF3の結晶が特別な一次元の構造を有する磁性体であることを解明していた。 低次元の構造物であれば、 特に相転移現象が面白いということであった。 ただし、私には良く理解できなかった。理論の方は平川一美先生のグループ、実験は我々のグループで行っていた。研究は結晶作りから始まる。硫酸銅の溶液に何かを混ぜ、 温度を一定に保った状態で結晶を成長させる。その装置とは何てことはない。七輪の周りを電熱線で囲み、サーモスタットを用いて、温度制御 を行うものである。実は、単結晶成長はすでに成功におり、論文も先生と当時の大学院修士課程の門田さんとの連名で1編、平川一美先生、助手も入れた連名でもう1 が出されていた。先生は、門田さんのことを、彼がいないときずいぶん褒めていた。 物理学会で注目されたようだ。この研究は東北大学との競争であったことを先生から聞いた。東北大学が結晶作りに成功したといううわさが届き、こちらもあせって努力した結果うまくいったそうだ。実は東北大学の方はできていなかった。私たちも、同じような手順で作り始め、取り出したら、ずいぶん大きなのができていたので、喜んで先生に報告した。先生、いわく、「これはダメダ」。単結晶ではなかったらしい。その後、結晶作りがうまくいったかどうかは憶えていない。たぶん、ダメであり、先にできていた結晶を使って実験を行ったと思う。この実験も、主要な結果はすでに出ていたのではないかと思う。 

 

実験は2種類行った。1つは結晶の磁気的性質を調べるものである。静磁界の中に結晶を置き、その回転しようとするトルクの強さを磁気天秤で 計るものである。装置は先生の手作りで、天びんの支点にはレコード針を用いていた。天びんの回転はこれに取り付けた鏡に光を当て、反射光を離れたところにおいてある直線メモリの上に映し出す仕掛けであった。感度が高く、物理学会誌にその装置が紹介されていた。

 

ある日の実験のときである。皆が集まって、先生があちこちの 装置をいじって調整するのを見ていた。調整が終わったので、計測開始となった。私は気を効かせて、直線目盛りの上にかぶせている紙を取り去った。ほこりよけのカバーだと思っていたのだ った。すかさず、「バカヤロー、何するんだ」と大声で 怒鳴られた。 よく見ると紙には縦に線引いてあり、光が常にここに 当たるように、何かのパラメータを制御し、このパラメータの読みで計測するしかけだったのだ。このような、計測法は、電気回路では平衡ブリッジと呼ば れるもので、測定精度が上る。このとき、叱られた結験がその後生きた。 実は、NECの研究所で、この手法を作って、ガンダイオードマイクロ波発振器の 大きな直流電流 のなかの小さな変化を測定することができて誉められたのである。その結果を使って、論文も書けた。 

 

もう1つの実験は核磁気共鳴 (NMR: Nuclear Magnetic Resonance) の測定である。原子は磁気を帯びているので、直流磁界の中に置くと、コマのように首振り回転運動をする。それに電波を当てると、その周波数が 回転周波数と一致すると共鳴し、電波のエネルギーが吸収される 

 

この実験は、化合物 KCuF3のフッ素原子核F19 の磁気共鳴吸収曲線を使って、磁気の動的な振る舞いを間接的に調べる方法である。病院で使われているMRI (Magnetic Resonance Imaging)と同じ原理である。MRI では水素原子の共鳴現象を用いている。 共鳴周波数は磁場の強さに比例に変化する。

 

共鳴吸収の大きさは、試料結晶に巻きつけた銅線の複素インピーダンスを測定することで得られる。共鳴吸収曲線を得るためには、電波の周波数を変化させる方法と、磁場の強さを変化させる方法がある。我々の方法は電波の周波数を同じに保って、磁場の強さを変化させるものであった。電波の周波数を変化させるよりも、磁場の強さを変化させる方が電気回路として簡単であるからだ。 ただし、電磁石に流す電流に交流を重量するので(摂動法)、共鳴曲線を微分した曲線が得られる。この形はガウス曲線かローレンツ曲線になること、これにより、物質内部の磁気的性質が分ると説明されたが、私には理解できなかった。 実験置はすべて先生の手作りであった。真空管を用いた高周波電気回路と、電磁石が主なものである。電流を上げると、電磁石からバリバリと音がしたので、私が気にしたら、先生はしかめた表情を見せた。研究費が少ないので、手作りと思われる。

 

私の博士論文の題目は「導波管接合サーキュータの研究」である。伝送特性が非可逆になる特異な性質を持つサーキュレータにはフェライトと呼ばれる磁性体が必須である。フェライトに直流磁界をかけると、透磁率が非対称テンソル(行列)になる。このテンソル行列の非対称性がサーキュレータが非可逆回路となる物理的本質である。透磁率が非対称テンソルになるのは、電子スピンの歳差運動によるものである。従って、私の博士論文の原理は、学生時代のこの実験同じである。 

 

先生の話に戻そう。先生は明治時代のような凜とした威厳をそなえておられた。さらに、ユーモアがあり茶目っ気 みたいなところもあった。例えば、先生の居室には、英悟で、K. Hirakawa とある。 その隣りは、平川ー義美先生なので、全く同じ書体で、K. Hirakawa とある。最初に訪れた人はとまどっただろう。

 

実験は液体ヘリウムを使い温度を変化させて行うので時間がかかる。徹夜になって、先生の部屋のソファに寝かせてもらったこともある。実験の夜には先生がおやつを用意して下さった。クッキーが多かったと思う。いつかは、何か希望があるかと聞かれ、私はゼリービーンズを頼んだことがある。 ある日、先生の物理学会 (英語) 論文を大学院の門田さんが解説してくれた。先生もそばに座っておられた。磁性構造が一次元になる理由として全体エネルギーを減少するために結晶が歪むJahn–Teller効果でこのような現象が出ていると、説明された。私が、何ゆえにそのよう結論づけられるかを質問したところ、先生が「物理学会で発表したときに、同じように質問されたよ」と言われた。ほかにも、「赤岩君は分りが早いね」とほめられたことを憶えている。今、思えば、私がその後に書いた論文は、先生のこの論文を模範としている。短い文章で 誰にも分りやすい英語である。小説家であれば森欧外や夏目漱石のような、格式があった。私は論文のなかにあった一文、「the crystal is pale blue がいいですね」と言ったところ、先生はニコニコ しながら、「事実をそのまま表現しただけだよ」と答えられた。先生は絵も上手であることは、後で知った。

 

研究室で皆で論講したのは、近角総信の「強磁性体の物理」だったと思 う。何んと言っても、各自が疑問を出して、わいわい議論を楽しんだ厚囲気がなつかしい。先生の人柄ゆえんであろう。ある日、石松君が、先生に質問した。  誘電率や透磁率の実数部分ではなく、虚数部分が熱損失を表すのはなぜだろうか。インピーダンスでは実数部分なのに」と。先生はその場ではすぐに答えられなかった。翌日になって「石松君、分かったよ、キャパシタやインダクタの複素インピーダンスは1/jwC jwL になるね。ここで、容量C とインダクタンスL に相当するのが、誘電率と透磁率だからですね」と言われた。我々、電気の学生の言葉を使って説明して下さったのである。

 

先生の研究室には、例年、優秀な 学生が多かったようだ。土師君は、学科で1番の成績であった。彼は平川一美先生の下で、理論を担当していた。KCuF3 結晶構造であるベロブスカイトで強磁性が出るか出ないかという問題に群論を使って否という解答を与えた。黒木君だけが大学院生として先生のもとに残った。彼がとても良い仕事をしたと、後で先生に聞いた。 彼は修士課程を終えて、私と同じNECの中央研究所 に入ってきた。その後、私は九工大・情報学部へ、彼は九大 の平川先生の研究室の教授として移った。私が九大に移ってからは同僚として働いた。 土師君の成果は、NECの中央研究所に入った ばかりの私の評価を高めることになったかも知れない。 その当時、私が配属された電子デバイス研究部長は植之原道行さんだった(その後、所長、役員)になられた)。植之原さんは、米国の有名なBell研究所からNECの中央研究所に迎えられていた。彼の つてであろうか、アメリカで博士号とったばかりの男 (米国人) が入社してきた。研究部員全員の前で、彼の博士論文の紹介を行った。磁性物理の話題であった。そこで、ペロガスカイト型の結晶で、強磁性の発生機構を説明した。質問の時間で (植之原さんが通訳するので日本語でも良いと言われた)、私は土師君の結果を紹介して、結論が異なると言った。彼は、「ペロブスカイト型でも違う性質を示す型があるので、あなたの友達が検討したのは、それだろう」と答えた。じつは、この際に、専門用語として、canting effectという単語が主要な意味をもっていた。司会をしていた植之原さんは、元々、電気が専門なので、この単語の意味を知らなかったようだ。私が身振りで説明示すと、彼は、すぐに分って、通訳をした。 このこともあったのかどうかは分らないかけど、私の上司(室長)が、植之原さん(部長) の言ったことを私に話した。「赤岩君が伸びなかったとしたら、綾木  (私の上司で主任) のせいだ」言ったそうだ。若いときには、誰かに良く評価されるのは、 嬉しいものである。九大に移って、NECC&C財団の選賞委員の一人として、植之原さんと会ったとき、彼が「赤岩君も偉くなったものだ」と話された。私は「植之原さんのおかげです」と応じた。 

 

先生はその後、東大の物性研に移られた。その理由として、先生は 「私は自爆したのです」と言われた。先生が中性子回折の実験のために、原子炉を作ろうとしていることを我々に話したことがあった。 皆が驚いていると、「その大きさはどれくらいだと思う」と話した。 ニコニコしながら、 直径30cmぐらいだと言われた。この計画が九大で審議されて、却下されたことが原因であったようだ。東大の物性研究所に移られてから、どこかでお会いしたときのことである。 「東大の学生はとても熱心に講義を聴いている。居眠りする者はだれもいない。 ただ、研究室に配属されて、研究をしている際に、少しでも キツい言葉で注意すると、泣きべそをかいたようになる」 と話された。

 

私が会社に入って、2~3年でらいして、仕事を辞めたくなったことは何度か書いた。 夏休みの帰省の折だったと思う。 九大の研究室を訪ねたら、平川一美先生がおられた。私が会社を辞めたいと相談したら、「金四郎先生が研究室の荷物を片付けに九州に来ており、今、自宅におられずはずだ。先生は東大物性研の技官助手を探しているので、ひょっとして雇ってもらえるかも知れないよ」と言われた 。先生を訪ねると、玄関そばのソファに座って論文を読んでおられた。家に上げていただき、ゆっくりと話しを聞いて下さった。私は技官のことは話さなかった。聞き終わって先生は言われた。「君が物理に興味があることは、知っている。しかし、物理の研究も、それほど高尚で楽なものでもないよ。私は、今、冷却のための魔法瓶を作りに精を出している。 「君はNEC の中央研究所にいて通信の研究を行っている。通信の研究を行うところとして、たいへん恵れている環境ではないか」と諭された 。最後に、 つぶやくように言われた。「私の教え方が悪かったかも知れない。教え子が何人も物理の研究をやりたいと相談してくる」。帰りに先生は、駅まで 送ってくださり、切符まで買ってくださった。

 

会社に残ることにし、研究に仕事に身が入るようになって、黒木君と2人で先生の官舎 (当時は船橋あたり) を訪ねたことがある。先生は喜んで迎えてくださり、晩飯には寿司とステーキまでごちそうして下さった。夜、だいぶ遅くなり、先生は我々に聞いた。「どうする、泊まっていくかい」と。黒木君は帰るつもりでいたようだったが、私が「泊めて下さい」 と言ってしまった。その後は先生の娘さん (当時小学1年生)も交えて、 トランプで遊んだ。私は娘さんのベッドに寝かせてもらった。その後、娘さんは東大の薬学部に入り、分子標的薬の研究されていると聞いた。娘さんが 絶対音感の持ち主であるとは、九大の卒研時代に聞いていた。 

 

先生が退職されて九州の自宅に戻られてから、 これまで、3度訪問したことがある。最初は、九工大・電子情報工学科の職員で泊りがけの忘年会で福間海岸付近の旅館を行ったときのことである。物理を教えている先生に(九大物理出身)、「この近くに平川金四郎先生の家があると話したら、良く知っており懐かしいのでぜひ寄って行こうと言うのである。 総勢10名ぐらいで押しかけたのに、先生は奥さんと2人で喜んで迎えて下さった。

 2度目は先生が朝日新聞に投稿された記事を見つけたときであった。 エアコンで冷房する際に、効率よく冷やす工夫について書かれてあった。空気取り入れ口の前に濡れたタオルを置いて、気化熱を使って温度を下げるしかけである。水分は、エアコンから出る排水を利用するところがミソである。さらには、タオルの下端をギザギザの切り込み (先生は新選組のハオリの裾模様と表現された)もまた、別の工夫である。訪ねてみると留守であった。持って行った長崎カステムの袋に名刺も入れて、玄関にかけておいて帰ったところ、後で電話をかけて来て下さった。病院に行っておられていたそうだ。 翌日に再び訪れて、ひとしきり話をさせていただいた。帰りに、先生が 自分で描かれた水彩画を下さるというので、私は一番気に入った、フランスの田舎の石橋を描いたものをいただいた。今、私の家の玄関に飾っている。先生の水彩画は プロ並みのできばえである。銀座と福岡の画廊で2度も個展を 開かれたことがあるそうだ。 

 3度目は、私が九大を退職して電気通信大学で客員教授として勤めていたときに書き上げた英語の専門書が出版されたので、先生にお見せしたいと電話した。先生も奥様もわが事のように喜んで下さった。そして、先生が若いときに膨ったという、戦艦「三笠」の模型を見せてくださった。見事な出来映えであった。実家にあった人が乗るカゴの桐製の担ぎ棒を使ったそうである。帰り際に先生の業績の  (中性子回折を用いた磁性体の特異な物理現象を実験的に解明された)に対して、物理学会から表彰されたときの記事 (他の人が書いた) の写しをいただいた。 西洋のようには大きな研究費を使わないで、物理の本質にに迫る実験を、工夫して行い大きな成果を上げられたようである。

 

最後に先生にお聞きした印象に残っている言葉を書きます。

 ・良い仕事は 一生に一度か二度くらいしかありません 

 ・難しいと思えることも、やってみると案外にうまくいくことがあります 

 

ここまで書いて、一番大事なことを忘れていました。卒研生と先生(一美先生は居なかった)それに秘書の女性(顔は出るけど名前が出ない)とで、久住山に登り、温泉が出る九大の山の家に泊まる計画である。天気の良い秋の日であった。先生は革靴にスケッチブックを持っておられた。牧の戸から登り始め、九大山岳部が雪で遭難したところを通り過ぎて尾根に出たところで、急に冷たい雨が降り出した。皆無口になり、弁当を食べる余裕もない。誰かが持って来ていたチョコレートを配って歩きながら口に入れた。私は先生のスケッチブックを代わりに持つことにした。どうにか途中の道路(やまなみハイウエイ)までたどり着いた。ここから九大山の家に行く途中で全員遭難死するところだったのである。ガスが出て、10mぐらいしか見えない。悪いことに、道を知っており計画を立てた土師君が風邪を引いて来れなくなり、石松君が先導していた。だいぶ下ったところで、道が途絶えてしまった。皆、慌ててそこら中探すが、それらしき道がない。暗くなってもきた。我々の混乱を見て、先生が大きな声を出した。地図を手にしてから、「確かなところまで引き返せ」と言われたのだ。引き返すと、途中で小さな案内標識が立っていた。その方向は我々が先ほど進んだ道とは、少し方向が異なっている。細いけれども確かに登山道が続いていた。我々が間違った道は、牧場で草を集めるための道だったようだ。正しい道を進むと、九電の地熱発電所の蒸気の音が聞こえてきたので、ホッとした。濡れて冷えた体を山の家専用の源泉から引いた温泉に、先生も含めて一緒に入ったのは今でも鮮明に思い出す。

 

先生の格言を追加する。

  ・わからなくなったら、わかるところまで引き返せ

コメント

  1. 素晴らしい文章です👍

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    1. ほめてくれてうれしいです。ときどきほめてくれる人がいるので、作文を続けています。

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