韓国 古墳巡りの旅

 

会社同期の友人、Iさんのメールがきっかけで、彼と彼の 大学 九工大)の同級生( Uさん、Y さん)3人の旅に私も頼んで加えてもらった。韓国の古墳 (前方後円墳が発見されて話題になった)について、石渡信一郎の日本書紀に関する著作 17冊を通して、前から興味を持っていたからだ。68日から614日までの長旅であった。下関と釜山を結ぶフェリーを利用するもので、船の中での2泊を含めて78日の長旅である。 帰ってからすぐに旅行記を書くつもりであったものの、帰国後すぐに行ったゴルフで、ぎっくり腰くらいの痛みの腰痛になったので、今まで延ばしていた。 記憶もだいぶ、失せかけてきたので、思い出しながら書くことにする。

 

今回の旅は今までで一番印象深い。 全員が後期高齢者 77 79歳)である。 8日間、文字通り寝食を共にした。 食事と酒代 及び フェリー料金(1等席往復 32千円)を含めて全部の費用は 8万円ぐらいの安旅である。 宿は ゲストハウスであり、一泊朝食付きで1500円から3500円ぐらいである。 3泊は2段ベッドの部屋であった。 韓国の交通料金、特にタクシー代は日本に比べられないくらい安い。 しかし、ビールについては、昔は、韓国産と日本産では 前者が 約半分ぐらいだったのに対して、 今回は、日本のキリン、アサヒの銘柄とほぼ同じ値段であった。 円安の影響だけとは思えない 。日本は安いのである。 そして、賃金も安いのである 1人当たりの GDP すでに 韓国に負けている)。 日本の交通費が高い理由を皆で話し合った。

 

今回の旅行が楽しかったのは、初めてお会いしたUさん、 Y さんと気があったこともある。 彼ら2人は古代史に興味がある。 日本各地の古墳及び邪馬台国の候補地を訪ね歩いている。そして、何より嬉しいのは 酒がいけるのである。 Y さんは 今回、朝4時半から起きてビールを飲んことがある。 これは大手土建会社に勤めていたことも関係あるかもしれない。この業界の現場の付き合いには酒は欠かせないのだろう。北九州で有名な工藤会は彼の会社にだけは手を出して来なかったと聞いた。 酒だけではなく体も張ったのだろう。 彼は体がでかい。酒はいくらでもいけそう。 そして気がいい。私の友人Iさんは、酒は好きではないので、大酒飲みの彼の友人、知人が、いかに 奥さんに苦労をかけたか、そして、早死にしたかについて話をして、 我々に忠告する。我々は聞き流して心の中で有難く思っていた。 勘定は飲み代も含めて、全て割り勘であるからだ。酒盛りは、昼の下関での顔合わせから始まり、フェリーのラウンジでと夜遅くまで続いた。

 

さて 本題に入ろう。 訪ねた先は 釜山、大邱、高霊 (大伽耶)、光州、そして木浦である。 旅行計画はUさんが事前に調べ上げて、行動を時間を含めて、極めて 綿密に作り上げてくれていた。 おまけに各自用の立派な手帳風冊子にしてくれた。 特に 宿情報は住所と電話番号を含めて書いてある。 誰かがはぐれてもすぐに合流できるための配慮である。私は外国に行って、予約した宿を思い出せずに苦労している悪夢をたびたび見る。古墳の話に戻る。Uさんの計画をメールで見て、金海市にある古墳、特に、金首露の墓が含まれていないと思った。 それで、この日は私だけでも 別行動にしたいと申し出た。そしたら、 それは大成洞古墳のことであり、 ちゃんと入っていた。 自分の不明を恥じた。

 

釜山に着いて、 両替した後、 韓国の高速鉄道 SRT KTX 同じレールを走る別の安い列車)で大邱に行く。 不老洞古墳群と国立大邱博物館を見学。 これという印象がなかったのか、 今となっては思い出せない。 思い出すのは、初めて体験する ゲストハウス(マンナ)の有様、サウナ、 西門市場での夕食である。 下関、フェリーの中と飲み続けていたので、 サウナで汗を流せたのはありがたかった。 さらに印象に残っているのは2日目の高霊 (大伽耶) の池山堂古墳と博物館である。 市内バスで 1時間くらいで降りたら、どうやら、目的地が違うバスに間違えて乗ったようだ。大伽耶方面へ行くべきところを高霊多山という場所に行ったのだ。 Yさんが韓国語を喋れたので助かった。 英語もたまには通じるものの、若い人や 都会の人に限られることが多い。 乗ってきたバスで途中まで戻り、 乗り換えて、山の麓にある目的地 にたどり着く。ここまでのドタバタは、まさに珍道中である。 我々は楽しんで問題を乗り越えた。バスの目的地はハングル表示のみだった。それにしても、韓国はなぜ漢字の使用をやめて、ハングル 一辺倒にしたのだろうか。漢字表記もあれば我々もすぐに気がついたはずだ。 昔は 漢字とハングル 混じりだったので、日本人にもそこそこ理解できた。 北朝鮮では強権的に ハングルを使用させたのかもしれない。 韓国でもこれに習う必要がなぜあったのだろうか。 もともと、朝鮮は、中国の文明・思想の一番弟子を認じていたのに残念なことである。

 

話を元に戻す。 大伽耶の池山堂古墳は後から調べてみると、 重要な史跡である。博物館は新しいようであった。 何より山間に溶け込んだ風景が、 そしてその雰囲気が、日本人の私には大変懐かしい気がした。 伽耶 (加羅) は百済と並んで、 日本書紀を読む時の重要な単語である。私が信奉する石渡信一郎の著作を通じてこのことを理解している。 博物館で案内を頼んでみたら、 運よく英語を話せる女性(元は中学での英語教師)が、ボランティアとして対応してくれた。 いろいろと質問したのに対して そこそこの答えが返ってきてよかった。 残念なことに1時間ぐらいしたら別の館員が彼女を呼びに来たので、あとは自分たちだけで見ることになった。 説明文はハングルと英語、そして所々に日本語がある。 スマホをかざすと日本語の案内が音声で流れるようにしてくれればありがたい。 質問に答えてもらえばさらに理解が深まる。 Chat GPT の出番だと思う。

 

博物館の隣には、 発掘した古墳を屋根のある建物で囲んでそのままの状態で展示してある。 王様が死んだ時に近親者が、自主的あるいは強制されて 一緒に死んでいく「殉葬」がはっきり示されていた。 ここでは合計7名ぐらいいたようだ。皆で再び生き返ることを信じていたらしい。調べてみると「殉葬」の習慣は北方騎馬民族の風習のようである。朝鮮半島南部を支配したのは北方のプヨ族だ(朱蒙王 伝説がある)。 北方民族の抗争は激しく、 その一部が半島南部に進出してきたのは十分に考えられる。 彼らは 馬と鉄を持っていたので、新しい土地を征服するのは容易であっただろう。

 

 展示館の中には成人の男性と女性の復元想像人体が置いてあった。最近の DNA 解析技術を用いれば、このように人の顔を含めて精密に復元できると聞いている。 私には日本人そのものだと思われた。 着物を現代服にしてみたら 、今どこにでもいる男女と見える。 韓国人の顔も日本人同様に様々である。 ただし、 この伽耶人の顔は、私には親戚の顔に見えた。これは私の顔が韓国人に似ているせいかもしれない。実際に、ソウルの地下鉄で田舎から出てきたと思われる年配の人に声をかけられたことが何度もある。大抵の日本人の赤ん坊には青いアザがある (蒙古斑:Mongorian blue print)。これは漢 (中国) 人には無いそうである。我々は北方騎馬民族の DNA 韓半島を通じて受け継いでいる証拠であろう。

 

 

展示場のそばの丘に登ると、山の稜線に沿ってたくさんの墳丘が見える。昼食はコンビニで買った弁当とビールを園内にある東屋で食べた。ピクニック気分だ。 帰りは 高速バスに乗って順調だった。 これまで相当の距離を歩いたので、足の親指の付け根に痛みを感じたけれども、それもなんとかしのいだ。 その日も サウナの後に 焼肉、 ビール、 マッコリ、 焼酎を楽しむ。

 

翌日は朝早く起きて、大邱から高速バスに乗り3時間ぐらいかけて光州に向かう。 ここのゲストハウス (Dasomchae Hanok Stay)4 雑魚寝の部屋である。 中庭を挟んで古民家風の別館があった。 こちらは多分料金が高いのだろう。 韓国の昔の農機具などが 無造作に展示されている。 鉄の歯を直線に並べた 麦の穂先を切り出す道具の先端を見つけた。 子供の頃、私も使ったことがあるのですぐにわかった。

 

古墳は随分と外れにあった。 タクシーの運転手は迷いながら、細い道をハンドルを切り替えししながらやっとたどり着いた。 小さな古墳であるが紛れもない前方後円墳であった。 すぐ下に栄山江の支流がある。 川の流れに 平行して作られている。川からの眺めを意識して作られたものだろう。 大阪にある巨大な大仙古墳 (仁徳天皇陵) も大阪湾に入ってくる時に、海から見られることを意識して作っているそうだ 。国の威信を示すのに格好である。 韓国には前方後円墳はないとされてきた。ところが 近年の調査によりかなりの数が知られている。 いずれも 年代は百済時代のものであり、比較的新しい。 日本の前方後円墳の影響を受けているのは間違いない。 後でネットで知ったことである。発掘したある古墳の内部は、九州の前方後円墳と見間違うばかりであるそうだ。 それで一部の国民感情を気にして 、すぐに墓を閉じたという。 古墳といえども 国民感情は植民地化された当時の日本への反感を誘発するのであろう。 このような感情が韓国の古墳群を世界遺産にする運動に水をかけているようだ。 植民地化されていた当時には、日本の考古学者、 鳥居龍造が古墳を発掘して日本とのつながりを指摘し 、植民地政策の後押しに利用したという説がある。 韓国側から見たら文明を伝えてあげた日本(大和、倭)が後になって恩を仇で返すように映るのだろう。 世界遺産申請の文章表現で、日本が古墳時代にも韓国の一部を支配したと捉えられる言葉が出ていたのが問題となったようだ。

 

この日の夕食はコンビニにで買ってきた食料と飲み物を宿のテラスで取った。翌朝に、仲間3人は4時半頃に起きて朝食をとってから散歩に出て行った。 私は7時頃起きて朝食をとった。 宿を出発する8時頃になって、 私が帰り支度で降りて行くと宿の若い管理人にこっぴどく叱られた。 朝食は8時からであり、食べるものも勝手に取り出してはだめで、 主人が出したものだけだと知らされた。 韓国のゲストハウスを何回も利用してる私以外の 3 、ここの宿の規則を知らなかった。 私も部屋に貼っていた英語の規則文を後で読んで知ったのだった。 香港から来ていた韓国系の中年の女性に英語で話したら、彼女も叱られたそうだ 食事の時間外にコーヒーを飲みに行ったのが規則違反だったそうだ。 宿の主人が呼んでくれた タクシーに乗る際に謝罪 のつもりで1万ウオン札を彼の手に無理やり押し込んだ。 後で聞くと、Uさんも 既に同じ額を渡していたそうだ。

 

その日は、羅州博物館とその近くの古墳見学である。 残念なことにこの日は 休館日だった。 それで タクシーを待たせて、新村里古墳群を見てからそのまま次の目的地 、木浦へ向かった。 ここでは古墳見学の予定はない。 早く着いたので 宿 (Hundred years Hanok) に荷物を置いて、 ケーブルカーに乗って 山頂で昼飯の弁当を食べることになった。ところが、ケーブルカーの駅がかなり遠いことと料金が高いことが分かり、山の中腹で弁当を食べることとなった。 公園になっている木陰のベンチに座っていると、山裾から吹き上げてくる風が心地よかった。 サウナに入ったのち 夕食は 海岸の市場近くで海鮮料理を取ることに決め 皆で歩いた。 しかし、 方角も距離もあまりわからず 、例によって通りすがりの人に手当たり次第に道を聞く羽目になった。 Iさんが3人の女学生グループに英語で聞いてみるとまるで通じない。 実は中学1年生であった。 英語は習い始めたばかりだ。 その次に捕まえた中年の女性は、流暢な英語を話した。 海岸の市場までは歩いて1時間はかかること、 市場付近には食堂はそんなにないことが分かった。 ここまで歩いてくる途中に、何件もの海鮮料理屋があったので、おすすめの店を彼女に聞いて入った。 夕食にはだいぶ早いはずなのに、人がかなりいた。 手長タコの鍋物、たくさんの種類のキムチなどと、ビール、 マッコリ 、焼酎を十分に楽しんだ。 宿に帰ってからの酒盛りが楽しかった。 宿は 古民家を改造したものである。その風情は若女主人のセンスの良さを示しており、これまでで一番であった。 中庭には 3畳ほどくらいの縁台があり、 LED 電球が線状に連なっている。 真上の数個を消して、夜空を眺めながら酒と談義を10時過ぎまで続けた。 梅雨前の韓国であり、天気はずっと良く、 北の高気圧のせいか 湿度が低く爽やかである。

 

実は我々は一つの問題を抱えていた。タクシーにも使えると聞いていて買ったカードに全員分の料金として、40万ウォンを入れてもらっていた。これが コンビニを除いて、ほとんどのタクシー、そして高速鉄道では KTX のみで使え SRT には使えなかった。 払い戻しをしてもらおうとしたら、2万ウォン以下にならないと払い戻せない。 このままでは4万円が無駄になる。

 

計画を立てたUさんは、 ずっと気になっていたはずだ。 明け方早く彼は 名案を披露した。カードが使える KTX に乗って、木浦からソウル付近まで戻り、 乗り換えて釜山に戻る 。これでカード残金をほぼ 消化できる。名案だ。 元の案は、木浦から高速バスで釜山方向に向かい 途中で降りて、 固城博物館と松鶴洞古墳 、金海市の国立博物館、大成洞古墳群 並びに金首露王綾を見学して、最後の宿泊地、釜山に行くものであった。金海市へは釜山さんから地下鉄と電車を乗り継いで行ける。松鶴洞古墳をやめるだけであり、 時間的に、 断然、余裕が出た。

 

KTX の乗車を十分に楽しめた。 ただし、乗り継ぐ前の KTX列車内で 気まずい思いをした。 前のお席に座っていた2人組のネクタイ姿の男の1人から私の隣にいたIさんにスマホの画面を突きつけられた。 それには、 日本語で「静かにせよ」と書かれていたようだ。 スマホの翻訳ソフトを使ったと思われる。 Iさんはじっとしているのが不得意のようだ。 スマホの画面をいじらない時には大きな声でずっと喋りかけてくる。 私は窓から見える田園風景を楽しみたかった.実は、釜山から乗った SRT の中で車掌から静かにするように2度も注意されていた。 韓国人 乗客は全員 静かであったのに、我々はうるさかった。

 

私は、30年ぐらい前に今は亡き父を連れて JTB 1週間の韓国旅行に行ったことがあった。 福岡空港から対馬の上を通って 金海空港へ着き、 現地で若いガイドの女性と運転手が待っていた。 参加者は我々 2人のみであり、貸切となった。今でもその時の情景をはっきり思い出せる。当時の韓国の農村は、中国の農村にも似てポツンとした家の前に池があり、 アヒルが何羽か 泳いでいた。( 今回 KTXの窓からも、 所々、昔の風景を残しているところがあったので、 私は感傷に浸りたかった)。 慶州から公州に向かう途中の大邱付近に来た時、 父が話した。占領時代に、父の姉夫婦がここに住んでおり教員をしていたと。五島の実家に昔からある青磁風の狛(高麗)犬の置物はこの姉夫婦が韓国土産に持ってきたものだと、最近になって 私の姉から聞いた。

 

話を元に戻そう。  KTX が途中の駅で止まったので不安になった。案内の放送はない。下手したら予約してある乗り継ぎの列車に間に合わないかもしれない。 Iさんが乗客の一人の若い女性に聞いてみたところ、案の定、故障で止まっていることが判明した。 慌ててその駅で降りて ソウルから来る列車に乗り換え、予定どうり釜山に着いた。

 

金海市の国立博物館には 15年前ぐらいに、テニスの仲間8 と訪ねたことがあった。 その経緯はブログに書いた。 博物館はクシフルタケ(古事記にもその名が出る:亀旨峰)の麓にあり、 帰りに駅へ向かう時に古墳らしきものが見えた(これが大成洞古墳だった)。 その時には時間がなかったので諦めた。一度行きたかったのがそのままになっていたので望みが叶った。 今回乗った高架無人運転電車からは、前回訪ねた市役所が確認できた。 博物館前駅で降りて 入口に向かう 。受付で2階に行くように言われた。 そこは特別展示を行う会場であった。 その特別展示は、私が見逃して残念がっていた「伽耶展」だったのである。 金海市と福岡市にある博物館が、お互いの展示品を持ち寄って日本と韓国で開いたものであった。 福岡では入場料が2000円、ここでは無料だった。

 

展示品を見て、 どれが韓国か日本のものかは、まるでわからない。 それほどに似ている。 博物館の本館は隣にある。皆が一度、 見学したことがあるので ここはパスして大成洞古墳に向かった。 私が前に遠くから見たところである。 通路があって立ち入れたので、我々は古墳群の丘の上に座って昼食をとった。 その下隣りには、発掘した一つの 古墳全体を囲んだ小さな博物館ができていた。 幸いにも、 受付の女性が日本語を話したので 案内を頼んだ。 残念ながら彼女は1時間ほどして勤務時間 終了だと言って5時に 打ち切って帰って行った。

 

金官伽耶の初代王、金首露の墓はすぐそこにあるようだがどうにもありかがわからない。 例によって歩いている女性2人組に話しかけて聞いたところ、 そのうちの1人が親切にも現地まで 500m ぐらい歩いて 案内してくれた。 行ってみて 私は がっかりした。 どうにも 雰囲気が違う。 観光地化されているのだ。 私は皆にその気持ちを正直に話しておいた。

 

石渡信一郎の説によれば、金首露は日本に渡ってきて、 邪馬台国を滅ぼし、中国地方の吉備を中継した後、 ヤマトに入り崇神天皇として王権を確立した。彼は、大きな前方後円墳である箸墓古墳に葬られたとしている。 韓国の金首露王綾は箸墓古墳とは全く雰囲気が異なる。石渡信一郎は、韓国の墓には分骨して納めたと書いてある。 だから、新しいものかもしれない。気になって帰国後、ネットで調べていたら 九州大学名誉教授 西谷正が 韓国の金首露の墓はずいぶん後になって作られたと書いてある本を見つけた(西谷 正、加耶古墳の発掘、九州大学 リポジトリ)。

 

今回の旅行で韓国の古墳について新しい事実を私が得たものはほとんどない。 これは、奈良、大阪の古墳群を見学した時も同じである。古代史や考古学は、素人にも事実の説明はある程度分かる。しかし、何か新しい学説を出すのは学問として尊重する限り、 難しいと思う。 だとしても、今回の見学旅行は私にとって貴重なものである。 学者が書いた論文や解説を読む際に、自分の目で見てきた情景が背景にあれば 、文章に書かれた事実のイメージがよりくっきりするからだ。 今回の旅行では、高霊 (大伽耶)の風景が身にしみて感じられたことが最大の収穫である。

 

伽耶と百済の古墳に関する論文としては、吉村武彦 編著 「前方後円墳」( 岩波書店)に収められている、申敬澈、「伽耶の情勢と倭」及び、禹在柄、「前方公園墳が語る古代の日韓関係」が説得的に思える。論の展開の仕方は分野を限らず学問全体に共通する。 論文が書き手の力量を忠実に反映するのは間違いない。その後、我々の古墳巡りの参考となる解説動画を見たので、ここに紹介しておく。

  KBS World、歴史ぶらり旅38、「伽耶、独特な埋葬文化と倭の交流」

              37、「栄山江流域文化と前方後円墳」

これらは、稲荷山古墳出土鉄剣に記された辛亥年が531年だとすることを含めて、石渡信一郎が提示した、天皇家の歴史、すなわち日本書紀の真実を支持していると、私は思う。

 

より、詳しく言おう。日本書紀に登場する最も重要な人物は、崇神天皇と応神天皇(当時は大王と呼ばれた)である。石渡信一郎によれば、前者は伽耶から、後者は百済から来た (崇神家の入り婿になった)。応神天皇とその息子(欽明天皇)、孫(用名天皇)の事績は日本書紀からほとんど消されている(応神の別の息子は、百済に戻り武寧王(幼名は斯摩)となった(公州にあるその墓は盗掘から逃れており、完全な姿で発掘された)。百済時代の韓国で、前方後円墳が作られたのはヤマト政権が本家となったからと思えば自然である)。その理由は、日本書紀は天武天皇時代に編纂されており、天知天皇と天武天皇は母方が継体天皇(石渡信一郎によれば応神の弟)の血を引いており、継体系統は跡目相続争いで、応神系に3度殺されたからだ。最後のクーデター(いわゆる大化の改新)で、天知が王統を握った。応神系統の事績を消すために、聖徳太子をはじめ様々な人物が創作された。大臣蘇我馬子(本当は用名天皇)とその息子達(蘇我蝦夷と蘇我入鹿)は本当は天皇だった。馬子の墓とされる石舞台古墳は、復讐のために暴かれて無残な姿を現している。

 

 今回は縁があって 同好の志と旅を楽しませてもらった。 感謝します。 それにしても大学で一緒に学んだだけで、かくも 濃密な人間関係を築いておられることに感嘆する。 20歳頃の多感な時代に、8人部屋で4年間の共同生活をしたこと、並びに、 教官達も学内に居を構えて 学生たちに深く付き合いながら学問したことがなせる技であろう。 私も一時 勤めた九工大の前身である、 明治専門学校の教育の伝統の素晴らしさを改めて感じた次第である。

 

 

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