宮台眞司と小室直樹に学ぶ社会学

 

台については、彼が勤めている都立大学の内で切り付けられた新聞記事をるまでさほど知らなかった。何かで、「日本人はいものだけしかない」と書いていたのが記憶に残っていただけだ。今回の事件をきっかけとして、彼のことをネットで調べてみた。YouTubeにもたくさん出ており、本を突いた激な物言いに味を持った。彼は、自分の匠として小室をげている。大在学中に、小室の自主ゼミに参加していたとの事である。小室については、彼の本「数学嫌いのための数学」を、ずいぶん昔にんだくらいである。彼が数学以外の、社会や政治について積極的に言していたとえており、その当時、なぜそのような話題言するのかわからなかった。彼は、京大の数学科を出た後、経済(阪大、大学院)、社会学(大博)えていることを、今回、知って得した次第だ。ここでは小室、「危機の-日本社会崩のモデル」(初版昭和51年、新装版2022)と、台、「私たちはどこから来て、どこへ行くのか(平成29)、「日本の点」(2009)んで学んだことを私なりにくことにする。

 

危機造」は社会、政治、経済争等について、日本の造の特殊性を指摘して、それが危に突きんでいくであろうと、半世紀前に断言している。昨年になって新装版として再行されたのは、今の日本が置かれている困な状が彼によって予言された通りであると考えてのことだろう。日本の社会造の特殊性とは、すべての組織命共同体として、体制としてじており、その行準(エートス)が内部の理だけでのみ定まっていると言うものだ。内部にじているので、そのによるエネルギは凄まじいものがある。しかし、各組織は、独立には存在しないのであるから、外組織わらざるを得ない。このなる組織と折するのであるから、内部理だけでは通用しない。それで、どうしても交は苦手であり、略的に遂行する事ができない。果として危機に突入する。このような状は、広範に俯瞰できる人々からたら、目的を失った制御不可能なシステム状(アノミ)と映るであろう。小室は、昭和の争における軍組織のみならず、代の企、政治体制、官僚組織を含めて、前からわらず、この造的アノミ、したがって、無責任体制がいていると指摘する。彼が具体的例としてげたのは、前の組織だけでなく、「安保」や「日本赤事件」、「ロッキド事件」などである。あれほど盛り上がった安保であったけれども、「日米安保条の改定」が、何の目的でどのように改定しようとしているかについては、参加者の多数が無頓着であったと書いている。それほどにも重要な政治課題であるならば、なぜ在まで拗に追求しないかとの問題指摘もできる。日本の組織がダメなのは、指者が、自分で考えることをしない(できない)上に、皆が空むことに集中し、異論排し、「空」でまったことをひたすら行す無責任体制であるからだ。


この本の解は、社会学者、爪大三郎(元工大教授)いてある。彼の解は的であると思える。その中で、後知人のリとしての丸山眞男(大教授)と、小室直の主いに触れている。丸山は、前の指を断罪するものの、一般の国民は免罪した。そして、後の日本は生まれわりつつあるとした。これはアメリカ占政策と軌を一にしている。これにして、小室は日本の()と、(の企)していると主する。部は天皇をげ、絶対の忠を求めた。後の企は、民主主一翼であり、天皇はげない。なぜ部と企が同型であるのか。それは企は本来はなる機能(会社)であるのにもかかわらず、成絶対の忠を求める命共同体となっているからだと言う。それでは、なぜ企が国家の代わりに共同体にならざるを得なかったのか。それは、国民にして行を示す、天皇、ないし、昔の村落共同体が消したからだ。会社は、依るすべを会社に求めた。爪は、後民主主義の会社共同体も、新自由主義経済の前に崩れつつあり、国民大の依るべき所がどこにもなくなりつつある、と言う。


小室は社会科学の解体と再興を主している。社会をうのであるから、政治学、経済学、心理学、哲学を全て合した社会科学をしている。台は、まさにこれを践しているように思える。激な物言いも含めて、匠の小室の後をいでいる。小室の講演1つと、代のいくつかのYouTubeた。文章のき方、特に断定する言い方と同じように、この師弟はし方も同じように、似ている。


台が書いた「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」は、前の本、「日本の点」ののつもりでいたようだ。私は編(かなり難解)からんだので、は随分とめた。ここでは、これらの本の内容を介する事はしない。になったところについて、私なりの考えを交えて書く。「私たちは、」についても、本大三郎が解いてある。その冒分を介する。「今社会がおかしい。空洞化。デフレと格差。3人の自者。動機不明の犯罪。ヘイトスピチ。官僚支配と政治の力。膨らむ国の借金。そう感じるあなたは、本みなさい。ごたえがあるが、よくめば、あそうかと腑に落ちるはずだ」。


ここでれた多くのからわかるように、台は小室の仕事(世の中をう社会学)を引きいでいる。そして、研究方法がより践的になっている。例えば、宮台は、大学院学生代から、テレビ番企画や、そのためのマケットリサチを行うベンチャ会社の立者の1人として、経験している。さらには、の女子高校生の援助交実態を社会学的に理づけるために、いわゆる野外(フィルドワ)を行っている。フィルドワクは、未人の察を行った造主者、レヴィ、ストロスや、京大の長類研究などが有名である。研究室にじこもって、新しい学を考えだすのではなく、社会の現場に立ち入って、その造理を作る作である。台は、今でも、インタネット番による政治、文化、批を行っている (マル激トク、オンデマンド)。著作も含めて、自分をさらけ出している。爪は、解の中で、「んでみて「ヒリヒリ」する感えるはずだ」と表している。台も、自分の著作は、社会学理じているものの、そこには文学囲気を感じられるはずだといている。これは、照れし半分の表かもしれない。しかし、それは、自分のでしっかりと理解した本のみをいていると言う自信であろう。

 

の社会をうのであるから、人心理、経済、政治、哲学について、理解しなければ、本の解明は理である。小室、びに、台の著作をむとき、私は若いんだ吉本隆明の書きぶりを思い出す。少なくとも、普通の人々からたら、激な言に映るかもしれない。あるいは、自分の思考の新しさを、度を越して主しているのではないかとも思うだろう。


在における世界的な社会の混迷、あるいは、先行きの不透明感は、かつての冷期におけるイデオロギ立がなくなったであろう。経済的には、新自由主による共同体の解体、そして、むき出しの人が社会システムにそのままさらされている。社会規範を作り出す哲学は、いわゆるポストモダン思想において、すべて規範絶対的普遍的価値消失し、いわゆる、ポスト真理主やすい相のみが残ったことであろう。昔は、「神は死んだだ」とされた。これにいて、代は、「人は死んだ」と言う表がなされることがある。そのためにどうするかについて、台の策は、「自立した社会システム」を作ると言うものです。ここで「自立した社会」は「自立した人」を必要とする。

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つの著で、台は少しう言い方をしている。前書では「道よりもシステム」と「合理よりも非合理」いています。前者は、企業のに対して道徳を求める代わりに、社会をないようなルルを定めるというものです。後者は、人にしてであり、自己の利益ではなく利他精神に基づいて行しようと言うものです。彼は、革命家、チェ・ゲバラの生き方は利他精神によるものであり、このような考え方は、人々に染するはずだと主している。


後の物、「私たちは、」では次のよう説く。第1は、「<参加> と言う心の習慣>を指とした社会造の設計」です。これは、<任せて文句たれる作法>を止めて、<引き受けて考える作法>への転換、もう一つは、<空られる作法>から<理性を尊重する作法>へのをすべきと言うものだ。

 第2は<包摂>と言う<心の習慣>を指とした社会造の設計です。その1の答えは住民投票。これは、各人が居所があると思える、いわゆる<包摂>のために、情報開示に基づく熟を住民全体で行うものです。
 言われてみればごくまっとうなことです。しかし、「言うは易く行うのはしい」例の1つでしょう。


小室と台の本に解いた爪は台と同じように、小室が大でいていた自主ゼミの心な受生の1人であった。小室の本では、爪の貢献について触れている。小室は、から推察できるように、大での位は低く、経済にもまれていなかったようだ(酒が好きで多分結婚していない)。学である東京大学といえども、官僚的雰囲気があっただろう。外部においては、リベラルな教授が、研究室内ではそうでなかったことがあったと、小室が非していてある。爪は小室の年に工大の研究所に招いている台は小室の死に看取ったようだ。小室は田しく(私生とされている)育った。地元の人たちが助けてくれて学者になれたことを感して、その恩を社会にすべく、に励んだと、台が聞いたことを書いている。こうなっては、爪の著作をんでみなくてはなるまい。おそらく、3人ので共する何かがつかるはずだ。


: 台は、切り付けられた後に、医の忠告をかず、病気をおしてYouTubeに出ていた。彼は一重の幸運で命が助かったのがのようである。彼は中学と高校で空手部に所属していたようだ。空手で身を防いで死ぬことを免れたのかもしれない。

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