五島列島

 

名前からわかるように5つの島が列となって東シナ海方向に連なっている。本土から見て遠い方から、福江島、久賀島、奈留島、若松島、中通島がある。その手前にも、小値賀島と宇久島があるので、7つの島がまとまっているとも見える。

 

福江島のことを、私が小さい頃にはフカエ(深江)と呼んでいたので、もともとは深江島だったのかもしれない。もっと昔は、大値賀と呼ばれたと何かの本に書いてあった。値賀の島は万葉集にも登場する。大値賀と小値賀の2つの島の呼び方が紛らわしいので、深江島に変わったのだろう。値賀と言う語感からすると、「近い」と言う意味があったのかもしれない。

 

朝鮮半島や中国大陸から見たとき、日本列島は太平洋に向かって吹き溜まりのようにへばりついている。日本列島はもともとは大陸とつながっていたところが、大陸移動に伴って切り離され次第に離れていったそうだ。その証拠をNHKの番組で紹介していた。日本海側の海岸の岩石の崖がロシアの海側の崖と同じ構造でありこれらは元はつながっていたと言うものだった。大陸側から見たとき、五島列島が最も近かったので、値賀の島と呼んだのかもしれない。

 

九大の1人の学生が研究のために、奈留島に1ヵ月ほど滞在していたことがあった。当初は、指導教授もいたけどすぐに帰ったそうだ。私が奈留島の実家 (無人)に行った折、知り合いの区長がその学生を家に泊めていると、私に話してきた。私が九大で教えていたことを知っていたのだろう。彼らと役場の若い職員 (学生はその後、何週間かその職員宅に泊まることになった) とで、私の実家で一晩、酒を飲んだことがあった。その学生の研究は、地質学である。島の海岸の岩石の構造を調べることで、太古の昔、湖であった日本海の縁(五島列島も含む)が壊れ海水が流入した頃の様子がわかると言っていた。毎日毎日、海岸の石を眺めて、採集すると言う地味な研究である。


このブログで何を書くつもりかは前もって決めていない。したがって話があちこちと飛ぶことを許されたい。私は五島列島の奈留島に生まれ育った。当時の島には高校がなかったので、高校は長崎へ出してもらった。中学までしかいなかったけれども、山と海、それに亜熱帯の植生が多い宮の森、田畑、漁船などで、小さい時から、大人の働き方や子供同士の遊びを通じて、いろいろな体験をすることができた。住民も少ないので、各自のことはその性格も含めて、お互いに知り尽くしていたと言える。

 

島には小学校が3つあった。私が通った船廻小学校は2番目に大きかった。それでも我々の学年は女20名、男14名のみである。戦争が終わった、昭和20年生まれなので特別に少ない。その他の学年にはその倍位はいたと思う。同級生に「島子」という名前の女の子がいた。可愛くて利発で成績が良くみんなに好かれていた。「島子」と言う名を、私は本当に良い名前だと思っていた。名前だけではなく彼女全体を小学1年生の時から好きであった。老年になってから、同級生の誰かが、彼女は自分の名前にあまり満足していないようだと話したのを聞いて気持ちが悲しんだ。

 

私は「五島列島、祈りの島」と言う立派な写真集を持っている。奈留の実家に置いてあり客人に見せている。長崎県の広報課が制作したものである。多分、世界文化遺産登録活動に役立てるために作ったのだろう。写真も含めて、その道のプロが関与しているのは間違いない。非売品である。私がどのようにして手に入れたかは伏せておこう。手に取ってみて、すぐ、驚いたことがあった。五島列島についての俗謡が紹介されていたのである。

 

五島、五島と、皆行きたがる

五島優しや土地までも

五島極楽、来てみて地獄

二度と行くまい五島の島へ


五島へ行きたかったのは、キリシタン弾圧のせいで、逃れるためだろう。五島の殿様 (元は宇久公であり、後に、福江に移る) は、昔、キリスト教を受け入れ (息子の病気を宣教師の薬で直してもらいたかったと言う説がある)ていた。その後、五島を開墾するために、大村藩主に領民をよこしてくれと頼んだ。それに紛れて、キリシタンが大勢、移住したと言う。島の条件の良いところには、ジゲ (地下)人と呼ぶ人々が住んでいたので、後から来た人々(ヒラキ、開と呼ばれた) は不便なところに住み着くしかなかった。私の祖先は7代前に、西海の初島から移住してきたヒラキである。地下人は仏教、ヒラキはほとんど隠れキリシタンである。


半農半漁で食べるには困らなかっただろう。しかし、昭和の戦争が終わり、日本経済が発展するに従い、島を出る人が多くなった。特に子供の教育に問題があったのだ。私の父も実は出たかったようで、父の姉の婿 (教員をしていて父を教えた) が父の父に説得しようとしたがダメだったそうだ。その父親も、自分の長男が島を出たいと言ったのに、最初は許さなかった。私は次男に生まれて運がよかったのだ。ついでに書いておこう。カミさんは教員免許を持っている。しかし、先生にはならずに、県庁の教育事務職についた。何故かと言うと、先生になると五島、壱岐、対馬へ最低4年間赴任しなければならず、これが嫌だったのだ。長崎へ出てみて五島の人をよく言う人は少なかったような気がする。


島から出ないで、あるいは、一度出たけれども戻ってきて、一所懸命に働いている人がいる。島に残った理由はいろいろあるだろう。全員が好きで残ったとは言えないかもしれない。私の中学同級生(大阪在住)の甥っ子がその父の面倒を見るために東京かどこから、戻ってきたそうだ。口の悪い島の人が「今頃になって戻ってくるとは」と言ったと聞いた。最近はコロナウイルス禍で、島の住人はよそ者が入ってくることを極端に警戒していると聞いた。島を出られなかった無念が心の中に残っているのではなかろうか。島は一度出てからしか、その良さはわからない気がする。若い時にずっと暮らせと言われたらどうであろうか。島の人口は減りつつある。私が若い時に書き始めて完成できなかった小説がある。「島へ」と言う題目である。隠れキリシタンの祖先のルーツのことと、キリスト教を捨てた若者の失恋がテーマである。書き進めることができなかったのは、島について書くことが難しいからだったかもしれない。

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