業績の評価について

同じ表題で電子情報通信学会誌の巻頭言に書いたことがある。言いたい事は同じである。これはその付け足しのつもりだ。この学会では業績賞と言う表彰制度がある(その他、主には論文賞と功績賞)。学術並びに技術の進展に、これまで貢献があった業績を選ぶものである。私は、実は、この制度が変更された最初の選考委員会の長を務めた。以前は、推薦された各候補について、2段階の投票で決めていた。投票資格者は、組織の会員数に応じてその人数が決まっていた。したがって大組織に多く割り当てられていた。それで、業績の中身だけではなく、集めた票数で決まることがあり、投票依頼活動も多く、学会の賞の決め方としては問題があった。この弊害を正すために、投票は一回のみとして、規定数の2倍程度に絞り込んだのち、最終決定は専門家が協議して最終選考をする制度に変わった。

 当学会には、基礎境界、電子、通信、情報の4つのソサエティと呼ばれる部門がある。各部門から2名ずつの選考委員が出ていた。ちなみに、私の専門分野は無線通信である。各候補について、部門の近い委員を中心にして評価を始めた。無線通信部門について、私は2つの候補について問題ありと意見を述べた。もちろんその理由を述べた。1つについては、全員が私の主張を認めた。残りの1つ (無線LANのWi-Fi世界規格に貢献したと主張している) については、私の述べたことに対して委員の1人が強硬に異議を出した。私がそんなに言うのなら証拠を出せと言い張るのである。それほど貢献していないと言う証拠を上げる事は、直ちにはできない。私は、無線LANのWi-Fi規格を設定できたのは、ディジタル無線伝送方式と半導体技術の進歩が基になっており、その候補の貢献は小さいと説明していた。

 その他の候補についても、当該部門の委員が他の委員からの質問に答えられない事例がいくつもあった。それで議論がまとまらない。もう一度持ち帰って調べてから再度委員会を開くべきであったが、しかし、我々が報告すべき理事会は来週に迫っていたので時間がない。良い解決策が出ないので、結局のところ、投票の結果の票数の順位で決めてしまった。なんとも後味の悪い結果である。

 私は翌年まで委員長を務めることになっていた。それで来年は1ヵ月ぐらい余裕をみて、各候補に2名ずつの調査員を割り当てることにした。前もってわかる範囲で調べてくることにし、その際には賞の選考に絡んでいることを伏せた上で、専門家の意見を聞いても良いとした。それで、次の年の選考はうまくいった。調査を担当した2人の委員の意見が異なっていたこともあったが、たいていは、片方の委員が自分の認識不足であると認めた。

 業績の評価については、ノーベル賞が有名である。この賞の権威がなぜこんなに高いのだろうか。それは賞金額のみならずに、その選考判断が誰が見ても納得できるからであろう。そのために、選考委員会は賞金総額と同じ位の金を、選考のための調査活動に使っているそうだ。だいぶ前に、ノーベル物理学賞に田中耕一さんを選んだのは、選考委員会の面目躍如と言うべきだ。彼らはタンパク質の資料測定(分析)方法の確立で、突破口を開いたのは、したがって最も貢献したのは、当時、それほど有名でなかった田中さんであることを突き止めたのである。 

私はこれ以外にも、業績が絡んだ選考を経験したことがある。C&C賞選考委員会に属したこともある。私があまりにも本質にこだわるので、委員会が長くなると小言を言われたこともあった。大学の教授選考にも何度か関わった。何名かの候補者が絞られて選考委員の前で説明(プレゼンテーション)して、質疑を受けることが多い。驚いたことには、ほとんどの候補者が自分の業績を誇大に(私の印象では)宣伝するのである。そんなにすごいのなら、世界中の有名大学から招聘の申し出があっても不思議ではないと、少なくとも私には感じられた。残念ながら専門分野が少しずれただけでもその評価を正しく下すことができない。だから、このような宣伝を意図的に行ったフシがある。教授人事はその組織の今後の盛衰を決める最も大きな要因である。よく分からない人が多数決で決めることではない。候補者を正しく評価できる人が決めるべきである。私の例を書いておこう。海外の民間の研究所からと、海外の大学 (かなり有名) から誘いがかかったことがある。条件が合わないのでいずれも断った。彼らがどのようにして私に当たってきたかわからないけど、そこそこの調査を行ったはずである。もしかしたら、英語で書いた専門書が効いていたのかもしれない。 

文学賞などの選考も業績の評価の1つと考えられる。高木のぶ子が芥川賞選考委員を辞めたことについて書いた、新聞記事を前に読んだことを覚えている。他の若い選考委員との評価結果が合わなくなったことが原因かと思わされた。文学はその価値基準が決まっていない。だから意見が分かれても仕方がない。しかし、評価者の1人が強く推薦するのがあれば、その意見をそこそこ尊重すべきだろう。世界的に有名だった版画家の、池田満寿夫が国際版画展で最高賞をもらったのは、委員の1人が強く推薦したからだそうだ。ある文学賞選考については、委員長の権限が強く、他の委員が何か言っても選考にほとんど影響しないので、選考会議で居眠りしている人がいると言う話を読んだことがある。 

業績の評価とは少し外れる。政府の政策や軍事作戦等の事後評価なども重要である。これまでの歴史を見る限り、我々、日本人は正しく評価することが苦手ではないだろうか。空気を読むことに長け、一人で異説を唱えるのは少ない。しかし、評価をするためには、本質から目をそらしてはいけない。評価する事は、逆に評価する当人が評価されることになる。ともかく評価できる人が評価すべきである。

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