前のブログ「14歳からの哲学入門」で紹介した本で書いてあった、池田晶子が気になっていた。それで彼女の本「14歳からの哲学-考えるための教科書」(トランスビュー社、2003年発行。私が読んだものは2008年第21刷)、「残酷人生論」(毎日新聞社、2010年第1刷、2021年第5刷)、「悪妻に聞け- 帰ってきたソクラテス」(新潮社、平成8年発行)を読んだ。これらの本が出たのはずいぶん昔である。著者は2007年に47歳で亡くなっている。著した本は37冊に上る。「14歳からの哲学」は久米宏の報道ステーション(日付は不明、You Tubeに出ている)によれば、その当時5万部も売れている。哲学書にしては、異例の部数だったそうだ。彼女はそのときゲスト出演している。テレビ番組でも取り上げるくらいであるから、当時、話題になったはずだ。私も新聞広告で見たような気がする。しかし、読んでいない。私の気性として、世間で流行っている事は、なぜか興味が持てない。前の東京オリンピック、大阪万博、ビートルズ(これはずいぶん後になって好きになった)などである。
哲学を普通の言葉で書いたのが、流行った理由であろう。自分の頭でとことん考えることの大事さ、楽しさを、彼女は説いていると、私は要約したい。売れたのは、有名人を取り上げ批判している話題性も一因だろう。あちこちで連載したものをもとに、まとめたものであり1つずつの題に関しての記述は短い。哲学随筆と言ってもよいだろう。読みやすいのですぐに終わる。しかし、読み終わってから、どうにも頭の中に残っているものが少ない。随筆であるからだろうか。それとも私の年老いた頭のせいだろうか。そもそもブログに載せようとして、読んだのが間違いだったようだ。
考えがまとまらないので、本だけでなく、書評やネットの記事を探してうろうろした。その結果として、本の中身でなく、著者の人物に興味を持ってしまった。私は他人のゴシップは好きでない。ましてや、学問と研究を曲がりなりにも志す者にとっては、その業績のみが大事であり、著者の人物像とは関係ないはずだ。著者は美人であり(モデルもしていたそうだ)、そのことが、彼女の本の人気の1つの理由であるとする、くだらぬ書込みも見た。先のテレビ番組で見る限り、美人の部類に入るだろう。しかし、私の好みではない。たびたび、笑顔を見せるものの、私にはどこか痛々しい表情が感じられた。久米宏のツッコミや、中学生が学校の授業で読んで議論した後の感想や疑問に対して、軽やかに答える事はできていない。突っ込まれると、著者は「哲学は難しいものだ」と言う言葉でかわしているところが、番組以外でも、あちこちでの記述で見受けられた。
彼女は昔に流行った、「ソフィーの世界」(私も読んで本棚に残っている)を批判している。自分で勝手に考えることを推奨しているのは間違いだと言う。それは意見であり、哲学は意見では無いそうだ。万人に正しいもののようだ。ただし、この点に関する彼女の究極の見解は、はっきりしない。このような観点から、柄谷行人、養老孟司、西部邁、大江健三郎、立花隆、永六輔などが槍玉にあがっている。池田晶子が他人に対して喧嘩を売っているところで、1番詳細なものは佐藤亜紀(SF分野では有名な作家のようだ)へのものである。ただし、これは、佐藤亜紀の言い分のみをもとにしてである(ブログ: 大蟻喰の生活と意見:No.23、[まあ、何と言おうか、例の哲学の巫女が…]。佐藤の言い分によれば、「言葉は道具」と書いた佐藤の文章を、間違っていると池田が批判した。これで、出版社までも巻き込んだ喧嘩になったようだ。気になったので佐藤の文章を読んだ(中学生の教科書:国語、1.「嘘」の吐き方を教えます、2.言葉を使って何ができる。四谷ラウンド、2001年)。真っ当な考え方を説得的に述べている。ちなみに、佐藤の夫と池田は、小学校からの同級生であった。それぞれの夫婦で一緒に会食をしたことがあるそうだ。
池田の文章を読んだ私は、この論争を理解できるような気がする。哲学は言葉をもとにしている。したがって、言葉をないがしろに使う表現は許せないのだろう。これは、数学者が数式について厳格であるのと同じだろう。工学では数学は道具であると割り切っている。数式を使うことにより、問題とその解決法を、言葉を節約して、かなり厳密に記述できる。(私の数学論文は最後の頼みの電子情報通信学会からも再度拒絶された。その理由の1つは数学的厳密さの欠如である)。自分、時間、存在、生と死、などの事柄を、それこそ正しく考えるべきだと、池田は主張している。「悩むな、考えよ」、「考えれば、(例えば、死を)恐れる事は無い」と言う。しかし、「結論は出ない」ので、「自分でとことん考え続けろ」と言う。考えることをやめて、自分なりの結論を出すのは、間違いだと批判されるだろう。人間の思いこみ、決めつけを戒めている。彼女は結婚する際に子供を作らないと言う条件をつけたそうである。これは、彼女が嫌う決めつけではないのだろうか。
ともあれ、哲学者でない者は幸いである。私も池田と同じように考えるのが好きである。しかし、その対象は、抽象的なものではなく、庶民的なものである。例えば、安い雑魚をいかに美味いように料理するか、金をかけずに太陽熱を利用して電気代を浮かせるには、重い船を他人の力を借りないで上げ下ろしをするには、ゴルフのスコアを良くするには、などと考える。このとき、これが最良であると言う考えに至る事は無い。すべては、今のところは、と言う限定付きである。改善、改良には終わりがない。ときには、世界中の人々が楽しく生きる方法はどのようなものかと考えることもある。哲学的問題としての、自分とは、考えるとは、などについて、自分なりに結論を得ている。いずれブログに書くつもりだ。
後記: わかりやすい哲学の本として、
M.オンフレ「<反>哲学教科書 - 君はどこまでサルであるか?」(NTT出版、2004年)を読んだ。池田晶子の本よりもこちらを薦める。
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