高橋純子

この人を知っている方は少ないと思う。朝日新聞の「多事奏論」の執筆者(編集委員)の1人である。彼女の書いた論説をいつも楽しみにしている。1番面白いと思ったのは、今年の2月3日(水)に載った「緊急事態の首相  ラケット握らずコートに立っても」である。出だしは大体私事から始まる(私のブログも同じ )。最近亡くなった、半藤一利 (元文芸春秋編集長、昭和史の著述が多い)からもらった、はがきについて書き始めている。半藤の言いを用いて、安倍前総理と菅総理の政治の行い方について、批判する。その後、記者会見や国会審議を、テニスの試合でのボールの打ち返し合いに例えている。

 菅総理については、そのまま1部を引用する。「だから私はこの4ヶ月半、首相がなぜテニスが下手なのか、ずっと考えてきた。やる気がないのか。向いていないのか。練習不足か。そして気づいた。首相は打ち返すどころかそもそもラケットを握っていない。首相がやっているのはいわばドッジボール= 避球「投げられるボールを避け(dodge)逃げ回るところから生まれた名称(ブリタニカ国際大百科事典)である。日本ドッジボール協会の理念にはこうある。「ドッジボールではその「かわす、逃げる」が真髄なのです」「上手に逃げることができればヒーローにもなり得るのです」(引用終)。 

そして結びはこうなる。「前首相はラケットを握ってはいた。だがアウトをインと言い張ったり(結局やっぱりアウトだったり)、ルールを読み変えたり、相手を野次ったりして、競技を汚した。それと比べてどちらがマシか、なかなか答えに窮するが、コートに立つなら下手でもラケットを握る、さもなくば退場、どちらかしないと、ひとまず、申し上げて、私からの挨拶とさせていただきます」。ここで最後の言い回しは、政府の代表としての挨拶における菅の当事者意識のない言い回しを真似て皮肉っている。 

3月10日(水)の題目は「女性と「自称めいた怒り」個人的な事はパワーに」である。森( 前首相、前オリンピック組織委員会長)と、政府の広報官山田真希子を批評している。前書きには、ある大学での講義の後で、ある学生から、彼女が書いた批評は「個人的なことが書かれているだけ」との感想が寄せられたと書いてある。(個人と政治が結びついていることを人々、特に若い人たちは実感できていない。だから、阿部、菅政権への若者の支持率が高い(私の意見)。大学での私の講義の感想で、「赤岩先生は認められていない自分の考えを我々に押し付けた」と書いた学生がいた。大学の講義が何たるかを理解していないことでは、彼女の場合と同じだろう。

 彼女の事は、「テニスとドッジボール」と言う題目で、いずれブログに書くつもりでいた。今日の新聞の欄に、執筆人が1部入れ替わると言う案内が載っている。新執筆陣に彼女の名前が見つからない。家内に話して、どういうことか、何があったのかとの議論になり、急いで今日書くことになった次第だ。家内も彼女の書いたものを楽しんでおり、上で紹介した2つの論説を切り抜いて保存してくれていた。それでここで引用することができた。 

我々は、彼女が降ろされたのは、政権を正面から批判したからではないかと思っている。彼女は、あるすじ (会社OB?)から呼ばれて、注意されたと書いていたことがあった。「お前は好き勝手に書いて気持ち良いだろうが、周りのものが迷惑している」とのようなことであったと思う。その時ちゃんと反論しており、その後も上に示したような批判を展開している。我々の勘ぐりが当たっていなければ良いのだが。

 彼女の批判は正面から的を射ている。佐高信、あるいは吉本隆明にもつながるような爽快さである。ただし、彼女の言い回しは、どこかユーモアを感じさせる(2つ目の論説は、山田真希子の「飲み会の誘いを断らない」をうまく使って終わっている)。また、どこかで書き続けて欲しい。

 追伸: 会社時代に同姓同名の同僚がいた。言説は的確かつ素直であり、品があったところが似ている。

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