私の囲碁


2年以上前から囲碁の指導を受けている。テニス、ゴルフ、酒の仲間の一人が師匠役を申し出てくれて始まった。彼は、日本棋院の3段の認定を受けており、碁会所では5段で打っている。1年で初段にしてくれるとの言いに、私は喜んで指導を受けてきた。4子置いて、勝ち越せるようになれば、初段認定の取り決めである。彼が私の能力を買い被りすぎていたことは、1年経っても認定が下りないことで証明された。2年になろうとした、今年の年明けについに認定が下りた。これほど時間がかかったのは、私に言わせれば、私の74歳という年のせいである。しかし、師匠に言わせると、他人の言うことを素直に聞かない私の性格のせいだそうな。そんなことはともかく、初段というと、柔道でもわかるように、そこそこの実力が認められたいうことである。素直に嬉しい。引き続き、3子で指導を受けている。

私が最初に囲碁を打ったのは、大学の寮にいたとき、同室の男が教えてくれたのが初めてである。それまで、将棋さえも打ったことがなかった。子供の頃、周りに囲碁、将棋を楽しむ余裕のある人は少なかった。何度か機会はあったように思うものの、将棋は、駒の動きを覚えるのが億劫だった。子供の頃から憶える(暗記)が苦手だった。その点、囲碁のルールは極めて簡単である。最初に囲碁を打ってから、それきりやる気をなくしたのは、その最初の囲碁が面白くなかったからである。うち始めてまもなく、私の石が当たりになり、逃げる羽目になった。しかし、最後まで逃げて全ての石が取られてしまった。「シチョウ」という手だったのである。相手も初心者だったと思う。習いたてで、私を実験台にしたフシがある。その男の性格も好きになれなかった。例えば、次のようなことがあった。我々の部屋に仲間を呼んで、私の迷惑も顧みずによく麻雀をしていた(彼らは、経済学部で授業は相当に暇だった)。彼は、自分が負けると、場所が悪いと言って席変えを要求していた。

その次に囲碁をしたのは、NECの中央研究所にいた時であった。当時の会社の囲碁部はかなり強かったらしい。東京の職場対抗団体戦では、いつも上位の成績を収めていたという。そのメンバーの一人は、研究所の人事部の男であり、九大の先輩(経済学部卒)であった。私の部下であった男は、京大(物理学科卒)の囲碁部の主将(5段)だったそうだ。彼ら56人が、我々の研究部の会議室で毎日昼休みに打っているのを眺めていた。あるとき、私の上司(京大電気卒、当時3段)が、手が空いたときに打ってくれたことがあった。いわゆる「セイモク」という置き碁である。あちこち殺されて負けたと思う。ただし、負けても嫌な気がしないし、むしろ興味が湧いたものである。それからは、私の部下が度々打ってくれるようになった。彼は、藤沢秀行の、「芸の詩」という本を貸してくれたことがあった。この本で、囲碁の世界を文章を通してではあるものの、奥深い何かがあると感じた。その中には、藤沢秀行の生き方、考え方にひかれる部分がかなりあったと思う。その後、同じ研究部の下手な連中数人で打つようになった。一番先に上手くなったのは、だいぶ後から会社に入ってきた男(東工大、工学部博士卒)であった。彼は、すぐに日本棋院初段の認定を得た。私は、3級ぐらいと言われていた。

私は、会社を辞めて、大学に移ってからは、打つ機会が時々しかなかった。そこそこの回数を打つようになったのは、つい3年ほど前からである。近所に住んでいる知り合いの男(3段)に教えてもらうことになったのである。彼が病気になって自宅寮しているときに、ひょんな話から、彼の家で打ってもらうようになった次第である。彼の病状が回復してから、近くの公民館での囲碁同好会に二人して参加するようになった。もっとも強い人は、80歳ぐらいの方で、7段の腕前である。私より弱い人はいなくて、同じくらいの人が23名いた。2年半ぐらい前から、前述の師匠役が、毎週水曜日の午後に指導碁を打ってくれた。ただし、水曜日の同好会参加者が極端に少ないので、今年の1月からは、水曜日は廃止になった。そこで、私の家の縁側で打ってもらってきた。そうこうするうちに、コロナ禍が始まった。そのため、今では、ネットで対局してもらっている。
初段の認定を受けて、3子になってから、残念ながら、その後は一度も勝てていない。下手どうしでやると1子の違いは大した違いはないと思う。強くなるに従い、その違いがはっきりするのだろう。プロどうしが置き碁をしたら、よほどのことがない限り、黒が負けることはないのだろう。

今まで、囲碁を打ってきて私なりに感じたことをまとめてみる。囲碁はルールを覚えるのは、簡単であるものの、勝負に勝つためには、基本的な考え方、あるいは良いスジをたくさんものにする必要がある。また、交互に打つのであるから、そんなに大差はでないはずである。しかし、私のような下手がやると大差がでる。囲碁を打ってみると、その人の戦いぶりを通して性格が出てくる。負けると悔しいけれども、いろいろな人と対戦できて、楽しい。囲碁のことを手話ともいうらしい。相手の意向を問うという言葉が、あるさし手に使われることからも分かる。

勝負に負ける理由

(a) 石の効率が悪い
  石を1つでも取られたくないと思ってしまう。そこで石を離して打つのが怖い。その結果、効率が悪い。その逆で、捨て石を作って、これを利用して石の効率を上げるのが良い。締め付け作戦はこれにあたる。プロは石を捨てたがっているそうな。いわゆる、フリカワリも上級者の囲碁には多い。下手どうしの碁ではたいてい、どちらかが潰れてしまう。

(b)  読みが甘い
  戦いになったときの、1手の間違いは、勝負を決めてしまう。これについては、私は対策はないと思っていた。しかし、師匠によれば、手拍子を避けて、少しでも読む努力をすれば良いとのこと。最近のプロの囲碁は、読み合い勝負が主流になっているようだ。従ってプロでも投了の場面が多い。アマでも、少しだけ強い人が、弱い人に対するときに、わざと読み合いに持ち込むことは常套手段である。将棋の升田幸三についての本に書いてあった。彼が、将棋で勝つために、何が重要かと聞かれた場面である。すぐに、「読みである」と答えた。2番目は何かとの問いに、少し置いて、「読みである」と答えた。3番目と言われても、だいぶ考えて、「読みである」と答えたそうだ。今では、AIコンピュータの読みは、全世界のプロはを上回っている。私の師匠は、いつも本手を打っているそうだ。私が気がついてないとはわかっていても、手入れすることがある。そのことで、下手を指導しながらも、彼は勝負を楽しんでおり、棋力も落ちないのであろう。私が負けてもそんなに腹がたつことはないのはそのためであろうと思う。

3. 欲張りすぎる
  置き碁では、序盤では優勢なのは当たり前である。そこで、実力の差を考えないで、攻めすぎたり、大模様を張りすぎたりする。その結果、途中で足をすくわれたり、自分でこけたりする。読みを伴わない欲張りは負けにつながる。私の師匠は、勝とうと思うな、負けまいと思えという。彼は、テニスも強く、日本のランキングでかなりの上位に入ったことがある。彼のシングルスの戦い方を見ると、言わんとしているはよくわかる。しかし、囲碁になるともう一つピンとこない。欲張りすぎるなということか、自分自身を知れということか、タイミングを考えろということか。

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