石渡 信一郎 – 在野の真の学者 –


この人の本を読むようになったきっかけは、林 順治 著、「日本人の正体」である。著者は石渡信一郎氏のほとんどの本の編集者だったそうだ。彼は、この本の目的を、石渡氏の研究業績を紹介することとし、この分野の主流の研究者への批判を込めて、いきさつをしっかり書いている。私のこの駄文の目的も全く同じである。

石渡氏の本を最初に読んだのは、「聖徳太子はいなかった」(河出文庫)である。研究結果の過激とも言える新規性に驚いた。それで、彼の書作本をネットで次々と購入した。三一書房から出た本が10冊、自家製本のように見える本(発行者:石渡 研)を6冊保有している。最初にあげた文庫本は10冊以上購入して、興味ありそうな、友人、知人に送った。

彼の業績を私なりにまとめると、次のようになる。
1. 天皇家の祖は、韓国の加羅(伽耶)から来た崇神天皇である
2. 五代目は、百済から来て入り婿となった応神天皇である
3. 継体天皇は応神天皇の弟であり、応神の後にすぐ即位した
4. 応神と継体の子孫が跡目争いで、クーデタを4回行った
  (欽明のクーデタ、蘇我—物部戦争、大化の改新、壬申の乱)
5. 日本書記は、史実を捏造して、上記の事実を隠している

石渡氏は都立高校の英語教師を途中で辞めて、古代史、特に日本書紀の研究に入ったそうである。給料を貰わないで、古代史の研究で飯を食っていけると自信を持てる人は、ほとんどおるまい。よほどの興味と奥さんの理解があったのであろう。おかげで私を含めて読者が彼の残した著作を楽しく読むことができている。

古代史研究の業績評価は、人文系の分野の特徴として、それなりに難しいだろう。数学であれば、数式の変換手順に誤りがあるかどうかで、結果の妥当性が検証できる(ただし、その価値についての評価は専門家であっても難しいのかもしれない)。物理や化学であれば、実験で確かめられることが多い。これに対して、古代史の研究では、上のような確固たる検証はできない(ただし、結論の重要性は素人でも分かるような氣がする)。従って、(状況)証拠を基にして、できるだけ合理的な推論を行うしかない。この際、なぜこのようにな史実が起こったかなどの説明があれば説得力がある。石渡氏は、考古学、歴史資料(文献学)、古代言語論などの研究成果を縦横に駆使して、学者Ÿ研究者に求められる真摯な議論を展開していると私は思う。

それに対して、大学や公的機関に所属して給料を貰いながら研究を行う、いわゆる主流派の学者達が、石渡氏の業績を一切無視しているように見えるのは、腹が立つ。これらの人々の多くは論文を何本(編)、本を何冊書いたか、研究費をいくら集めたか、ということにのみ関心があるのではないのだろうか。個別の小さな問題を地道に研究することも大事である。実際に、石渡氏は先人のこれらの研究成果をもとにして研究を進めている。研究者として、何かを発表するのであれば、これに関わる内容であれば、批判的にせよ言及すべきである。理工系の論文であれば、先行研究に適切に言及しないと、査読者が審査して、掲載を拒否する制度になっていることが多い。人文系では、気軽に論文や本を発行できる場合が多いようなので、先人の成果を無視した論説が発表されているのだろう。

石渡氏のように、物事の本質を重要視し、大局的に議論をできる人は、日本人には残念ながら少ないようだ。文系、理系を問わず、学者、研究者、知識人、政治家、軍人などを含めてである。日本のみならず、全世界で、人類が謙虚に生き延びていくために、大局的、本質的な議論ができる状況が必要である。実情は特に政治の世界で悪くなっていると感じている。

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